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September 7 言葉の影、または引用について (2)  Word Shadows: On Quotation (2) [ことば Words]

September 07, 2008 (Sunday)

   では、cacotype もいちおう調べがついたので、しきりなおします。まったくもって誰が読むのかわかりませんが、とりあえず、わたしのなかのかのへ(←倉橋由美子のパクリ)。

  戦前、署名・直筆文書蒐集の第一人者であったらしいアメリカ人 Thomas F. Madigan の著書Word Shadows of the Great: The Lure of Autograph Collecting (1930) のエピグラフとして冒頭に引かれている19世紀英国の劇作家 Charles Reade (1814 - 84)の中篇小説 "Peg Woffington" (1852) の第2章の地の文からの引用が、原文とだいぶズレているという話の続きです。

  参照のためにあらためて、ちょっと短くして、引用します。――

     "We have had ours."  Here she smiled, then, laying her hand tenderly in the old man's, she added, with calm solemnity: "And now we must go quietly toward our rest, and strut and fret no more the few last minutes of life's fleeting hour."
     How tame my cacotype of these words compared with what they were.  I am ashamed of them and myself, and the human craft of writing, which, though commoner far, is so miserably behind the godlike art of speech: "Si ipsam audivisses!"
     These ink scratches, which, in the imperfection of language, we have called words, till the unthinking actually dream they are words, but which are the shadows of the corpses of words; these word-shadows then were living powers on her lips, and subdued, as eloquence always does, every heart within reach of the imperial tongue.
     The young loved her, and the old man, softened and vanquished, and mindful of his failing life, was silent [. . . .](ch. 2)

  次のがエピグラフの引用。太字の赤は変えられているところ、細字の赤は消えているところ、黒字はないところ、紫はそのままあるところ(適当な区分です、もちろん)。

These ink-stains, which in the imperfection of language we have called wordsthese WORD SHADOWS then, are latent living powers, which, could they again be uttered by the lips which perished long ago, would subdue, as eloquence ever does, the hearts of all within their reach, and even in their silence still possess a strange charm to penetrate and stir the deepest feelings of those privileged to read them.

   下の、署名直筆文書研究書のエピグラフとして引用された文章の拙訳を前に出しました――「これらのインクのしみ、それを言語の不完全性ゆえに我々は言葉と呼んできたが――ならば、これらの言葉の影、は、潜在的に生きている力であり、遠い昔に消え去った唇によって再び発せられることが仮にあったならば、雄弁というものがつねにそうであるように、届く範囲のすべ ての人の心を征服することだろうし、黙していてもなお、読む特権を与えられた者の深奥の感情に浸透して揺さぶる不思議な魅力をもっているのである。」

  これは、すげー適当に訳したのですが(笑)、それは代名詞の指示とか、曖昧だったからです。 冒頭の "These" についてはあとで触れます。3行目ぐらいの "within their reach"は、元の小説では "within reach of the imperial tongue" に相当するところです。"the imperial tongue" はだれのものかというと、直接には "her lips" の "her" です。"lips" は上唇と下唇とあわせてふたつで、ひとりの唇でもlips です。 "tongue" は舌だけれど、「ことば」でもあります。「引用」文では、their の指示は、たぶん "could they again be uttered" の "they" と同じで、ということは "these word shadows" ということになりますが、これはちょっと頭の中で思考のピヴォットが――エクリチュールからパロールへみたいな――必要とされる気がするような展開ではあります(もう一つの可能性は"lips" ですけど・・・・・・「唇が届く範囲の」)。

  マディガンさんの気持ちになってみましょう。「偉人の "word shadows"――自筆蒐集の魅力」という本のエピグラフであるだけでなく、 "word shadows" という、そりゃあ "cacotype" よりははるかにやさしいことばの組み合わせですけれども、フツーじゃない言葉をタイトルの一部にしている本の、いわば期待をもたせる役割も兼ねた説明文書みたいなものなわけです。

  で、いちおう単純化して考えて、意訳的に言うとこんな感じです。――亡くなった過去の偉人たちの生きた声をふたたび聞くことはかなわぬかもしれないが、言葉の影である偉人たちの書き残したもの、それは声がなく、沈黙しているけれども、それでもそれを見つけて手に取って読む者(ここで、ぜんぜん原文にないprivileged みたいなのが出てくるのは蒐集の魅力にかかわるわけです)の心を深く揺さぶる、隠れたイノチ、不思議なチカラをもっている。

  原作では、小説の地の文で語り手が、 そのときに語った言葉に比べて、書き記された言葉、不完全な言葉のcacotype がいかに "tame" (迫力がない、生彩がない、要するにイキテない)か、という前段からつながっている話者の思考の一部です。「私はこれらの言葉、そして自分自身を恥じる。人間の書く技は、神聖な話す技に比べると、ずっと公共的ではあるが〔自信はないですが、 "commoner far" は far commoner で、common はpublicity がある、つまりより多くの人に共有されうる、というような意味にとります〕、みじめなほどに及ばない。――「聞くことができるなら!」

このインクの走り書きを、われわれは言語の不完全な使用ゆえに、言葉と呼んだし、無思慮な人は実際に言葉であると夢想するかもしれないが、言葉の屍骸の影である。これらの言葉の影は、彼女の唇に発せられたそのときには生きている力であった。そして、雄弁というものがいつもそうであるように、荘厳な舌の届く範囲のすべての心を征服したのだった。

   以下、夢想です。 

   とりあえず、この語り手の語りへの自意識的な介入と呼んでいいだろう、この一節について、 以下のことを勝手にモーリちゃんの父は言いたいような気になっています。第一に、ここで、語り手は語り手であると同時に文字通り「書いている」人間として姿をあらわしている。"These ink scractches" とは、語り手=書き手が、いま文章を綴りながら、目前にあらわれているものとしてフィクショナルに提示されています(え゛、それってチャールズ・リードの現実の描写じゃないの?という問いに対しては、小説はフィクションだから、という当然の答えをするしかない)。第二に、読むたびに考えがブレたのであんまり自信はないが、いまのブレだと、この"we" というのは結局は著者の「私」であって、 "words" と呼んだのは直前の段落のことだと思います。そして、それが正しいなら、別に西洋の歴史上どうだったとかなんとかなじゃくて、現在想定される読書関係〈筆者対読者)の中で考えているのだろうと思われます。(unthinking と呼ぶのはモーリちゃんの父的には気が引けるので、違うかもしれません。) で、そういうのって読者との距離は変わらないのだけれど、あたかも距離が縮まるように語りかけるように語り手なり作者が読者に語るというのと関わるのだけれど、ここではwe も含めてヨソヨソシイのかなあと。第三に、それでも、ここでいわばメタ的に、語りについて、というより書くことについて書いている書き手の語り手がいます。つまり読者の反応を第二のように想定して親密度を多少は高めながら、自らの書くという行為について書き記しながら書いている語り手がいる。

  マディガンの引用は(それが引用と呼べるなら)、元の文章のコンテクストをずらしたうえで、それを百も承知で、行なわれているものです。 そして、モーリちゃんの父は、引用はコンテクストによって意味を必然的に変容させられる、みたいな命題を思い出します(マディガンのにコンテクストないじゃん、というとさにあらず、本のタイトルや目次を既に読者目にしており、まだ読まぬ本文とともにコンテクストを形成しています)。が、同時に、こりゃあ改竄だよと思うのでした(爆)。

   それでも、この二つの文章の併置から、いろいろと考えさせられるところだったのでした。そして、引用とは、そういうものであれば引用元も引用先も引用者も被引用者も本望というものなのでしょう。

    チャールズ・リードの小説の文章が、書き言葉に対する話し言葉、声の優位を語っているのは明らかです。

    ここで、モーリちゃんの父の記憶は宮川淳の「引用の織物」のプラトンとデリダへ、そしてアルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスへ、と向かったのだが、いかんせん記憶力薄弱で20年前に読んだものをいいかんげんにしか思い出すことはできず、家から離れていて参照もできない。しかたなくインターネットで「プラトン、"声の優位"」と入れて検索してみると、グーグルだとたった3件しかヒットしなかった。うちふたつはpdf. 文書でした。html. で開いたら文字化けして意味不明だった、佐々木充「エクリチュールと声」([PDF]エクリチュールと<声>; html)と、もうひとつは加藤彰彦「ジャン=ジャック・ルソーの『エミールまたは教育について』のジャック・デリダ的読解――ルソーにとって教育とは何か」(pdf; html)。もいっこは蓮見重彦を引いてきた映画論でした。しょうがないから、というのでもないが、なんとなく「デリダ "声の優位"」に変えて検索したら、「芦田の毎日」というブログが先頭でヒットして、なんだかんだ読む羽目になってしまった日曜の朝だったのでした(いまここでそれについて書くと大脱線して戻れないので書きません)。

    モーリちゃんの父の声に権威はない(父の権威もない)。引用した人の声に権威があるかどうかはそれぞれです。でも自分よりは権威がありそうだから引用します。 いや、そうじゃない。自分は記憶がないから記憶が確かな人のものを引用します。――

デリダは『グラマトロジーについて』で、ルソーがパロール(話し言葉)とエクリチュール(書き言葉)を対比させ、パロールの優位を説いていることを批判している。ルソーによれば、パロールは眼前において生身の人間によって発せられるが故に自然に近いというわけである。それに反して、エクリチュールはそもそも書いた本人が眼前に存在していなくても成立するものであり、それだけ自然から遠いというわけである。言葉の発信元を探るという意味においてならパロールの優位は揺るぎないものであろうが、そのこと自体が言葉の信用性につながるわけではないとデリダは批判する。つまり人は嘘をつくことができるわけであり、眼前において発せられた言葉が真実を語っているという保証はないのである。またパロールを第一義的なものとして捉え、エクリチュールを二義的なものとして捉える階層秩序的二項対立は成立し得ないとデリダは指摘する。ルソーによれば、パロールは人間が持っている器官から発せられたものであるが故に価値があるのである。このような考え方はルソーに限らず、文字に対する声の優位という形で西洋の思想を支配してきたとデリダは指摘するのである。つまり音声中心主義の存在である。この考え方を突き詰めれば、文字がなくても充分にやっていけるということになる。ルソーが書物を嫌ったのも、このあたりの事情を考えれば符合するだろう。しかし眼前のみが自然であり、自然に反するものは排されるべきであるとしても、果たしてそれは可能なのであろうか。エクリチュールがパロールの二次的存在であるとするなら、あってもいいがなくてもいい存在というわけであり、この考え方が正しいのであれば、エクリチュールの存在はそれ程問題にする意味もないわけである。ところが、現実的な問題として記憶ということが出てくる。人は全てを記憶しているわけではない。そのため自分以外の何かによって思い出すということが必要になり、それがエクリチュールというわけである。ここにおいて、内的記憶(ムネーメー)が外的想起(ヒュポムネーシス)に取って代わられ、つまりパロールの優位は崩れ、エクリチュールがそれに取って代わるわけである。これはただ単に個人の記憶力の有無に帰せられる問題ではない。デリダによれば、パロールとエクリチュールの階層秩序的二項対立は完全に成立することはなく、その境界線自体が明確ではないのである。初めにパロールありきで、その後にパロールの不足分、例えばたまたま忘れてしまったことを思い出すために書かれたものを見るというような補足的なものとしてエクリチュールがあるのではなく、パロールの中にあって既にエクリチュールは存在しているというわけである。ルソーについて言うなら、ルソーはエクリチュールに対するパロールの優位を説くのであるが、パロールを発する人の心の中には神の手によって「書き込み」がなされていると表現するのである。このようにエクリチュールに対するパロールの優位を説くルソーにおいても、パロールとエクリチュールの階層秩序的二項対立は固定的ではないのだ。にも拘わらず、パロールの優位、これは要するに自然の優位ということであるが、このような主張をし続けるルソーの意図は半ば明白であると言うべきだろう。つまり、ルソーによれば自然に反しているとされる社会やその社会によって生み出された制度や価値観に対する批判である。敢えて言うならば、ルソーの自然崇拝もこの批判の反動によって生み出されたと言うことも可能であろう。従ってここにおいて明確にしておくべきは、ルソーに見られる階層秩序的二項対立は固定化されたもではなく、解体されるべきものであるということ、ただしルソーの主張する自然崇拝は、社会もしくは社会が生み出した様々な制度に対する批判の結果生み出されたものであって、ルソーのテキスト分析にあたってはこの認識を出発点にすべきであろうということである。(加藤彰彦「ジャン=ジャック・ルソーの『エミールまたは教育について』のジャック・デリダ的読解――ルソーにとって教育とは何か」[『四天王寺国際仏教大学紀要』第44号(2007年 3 月)], p. 430)

   すいません、つづきます。

bookofshadows_s.jpg

 Book of Shadows - A sterling silver charm.


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