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April 2 歌詞と記憶についてのメモ [歌・詩]

April 02, 2009 (Thursday)

   このあいだ、「March 28-29 短い文 (ポーの『マージナリア』から) 付 ミュージカルの歌詞についての雑感」という大仰なタイトルの記事で書いたことのつづきで、踏み固めのふたつめです。今回のはかなり俗っぽく、そして個人的なのですけれど。

  具体的な例を話します。このあいだ13日の金曜日のフライデーのフライの日に「March 13 2009年3月13日の金曜日のフライとアルバニ(カリフォルニア)の夕方の空」でふれた泰葉の「フライデイ・チャイナタウン」(1981年)。「フライディ・チャイナタウン」とディのィが小さいのが正しいのかもしれませんが、それはともかく、歌詞はタイトルを中にはらんで始まります―― 「It's So FLY-DAY FLY-DAY CHINA TOWN  真夜中の人ごみに It's So FLY-DAY FLY-DAY CHINA TOWN  はじけるネオンサイン」。情報としては、「It's So FLY-DAY FLY-DAY CHINA TOWN 」と、歌の現実(時間・空間)ががとっても「フライデー」のチャイナタウンだということと、その繰り返しによってブツ切れにされた「真夜中の人ごみに・・・・・・はじけるネオンサイン」というより細かい描写です。しかしここでL-R問題がでるとはw。よっぽど耳がよくてかつ"Fly-day" というわけわかめの言葉を自然にインプットした人はどれだけいたのでしょうか?  あんまり英語ふうに発音しているように聞こえないのですが。もっとも、Friday is the Fly Day. 的なノリは、日本では意外と以前からあったみたいなのですけれど(あからさまに日本人的な語呂合わせだけれど)。特にFMラジオはお好きなようで、「FLY!DAY TRIPPER〜FROM SKY GATE〜」(BayFM)とか「Fly-Day Wonder3」(fmnagasaki)とか「WEEKEND FLY! DAY」(広島エフエム)とか。なるほどね。もはや日本語ですね。

  そうなると "So" が不自然だと英語文法を考えてもあまり意味はなくて、いや、"Fly-day" は"China Town" を形容詞的に修飾しているのだから、副詞のso でOKなのでした。

  イッツ・ソー・フライ・ディ・フライ・ディ・チャイナ・タウン

   しかし・・・・・・耳で聞いてわかるんでしょか。

   その次の歌詞は「肩にぶつかるジンガイ ウインクを投げる」です。ジンガイは外人です。まるでわざとあっさり聞き取れないように崩している歌詞です。今回まじで歌詞を眺めたのですが「ジャスミンに接吻を」してなんで「私も異国人ね」というくりかえしが出てくるのかよくわかりませんでした。踊り疲れたディスコの帰り(かなんか知らんが)通りを歩くとジンガイがウィンクをしてくるが、彼は知らない顔をするので戸惑う。けれど、朝まで港を見ながら酒を飲んで遊ぶわ。私もチャイナタウンではストレンジャーよ。というような歌のようなのですが。

  いらぬ説明が長くなりました。例の2。チャイナつながりで鹿取洋子の「ゴーイン・バック・トゥ・チャイナ」(1980年)。「港の灯りキラキラ夢みたいにきれい」「そっと私をつねって好きになった人」。えーと、「私をつねって(そして)好きになった」のだとずっと思っていたのは私だけ? 私だけ~? いや、そりゃあ、考えてみれば、なんで、つねって好きになるのかはよくわからんのですけれど。「わ~夢みたい! ねえ、わたしをつねって、つねってみて~♪」というような女子をイメージできなかった若いころのインプットを引きずったままだったということなのでしょうか。

     例の3。えらくマイナーで古い歌で「雨に咲く花」。「儘(ママ)になるならいま一度 一目だけでも逢いたいの」を「ママになるなら」としばらく思っていた。この歌は1960年にロカビリー歌手の井上ひろしが歌ってヒットしてリバイバル・ブームを生みだすのだが、もとは1935年の関種子の歌でした。

   そして帰国前に書こうと思っている、Reimy の「愛にDESPERATE」 (1984年)のしめくくりの一言。「あなただけしか救えない」。これの主語を「私」だと思っていました。

   あー。なんか笑いのない話でした(笑)。

     要するに歌詞を吟味などしないで――それももしかするとイイナと思うココロに残るフレーズがあるにもかかわらずです――人は歌謡曲を受容しているのではないかということです。仮にカラオケで歌う歌でもナカミはあんまりわかっていなかったりするのではないか。たとえソラで全曲歌えたとしてもその記憶はポー的にいうと「看取」というのからほど遠いのではないか。 

     カリフォルニア時間2日9時40分追記
  もうちょっと書いておきます。音楽を聴くときに、耳に入ってくる歌詞を熱心に頭は注意していないのではないか、ということです。なんとなくこのあいだから気になっている歌を例に出すと、Kとブルンネン(誰やねん、ってヒデとロザンナみたいなデュオです)が1970年に歌って、その後、南沙織、朝倉理恵(1973年)、その後さらに80年代に柏原芳恵がカバーした「あの場所から」という一見というか一聴しみじみした歌があります。冒頭の、誰が歌っても「遊ぶハートをふたりで見てた」に聞こえるフレーズは別に聞き違いの対象ではないです。内容のほうです。Kとブルンネンだと「若いふぅたりからだとからだ」と男のほうが歌って、続けて「求めぇあってぇ生きたぁ」と二人で歌う、その歌詞です。体と体、求めあって生きた、だぜ。すごい歌詞です。ではないで唱歌。それでも、どれもあっさりと聞き流されてしまう。あるいは若い女性が平気で歌う。というか、だからこそかどうか、あっさりと細い声で歌われる。これはどういうことなのでしょう。a) 歌の内容と歌う主体は無関係、だってパフォーマンスだから、仮に感情移入しても恥ずかしくはない。 b) あんまり歌詞は聴く側にも歌う側にも看取されていない。 c) 70年代はそういう歌詞の時代だった。 d) 歌詞と曲には必然的な結びつきがない場合も多くて(いやもしかしたらなくって)、半分以上は曲のほうで脳に受容される(うわ適当)。コトバは断片的に曲にくっついてイメージ化されて雰囲気をつくればよい。

 

 

カリフォルニア時間4月5日朝8時追記

April 4 主体の惑乱、またはの絶望 Confusion of the Subject, or Desperate for Love」を読んでいただけるとギザうれしおす。

 


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