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December 27-28 擬似科学をめぐって(1) イントロふうに  On Pseudosciences (1) [短期集中 擬似科学 Pseudoscience]

December 27, 2008 (Saturday)
December 28, 2008 (Sunday)

   ると、この2ヶ月くらい、ある事情(作詞 安井かずみ)があって擬似科学についてあれこれと考えていて、せっかくブログがあるのだから、書いてみようかという気がこの数日高まってきました。インターネットは小学生も見るのだから小学生にもわかるような言葉づかいで書かねばダメだとかいうバカな理屈はハナからハナで笑ってうっちゃってきたとはいえ、人に読んでもらうからには誰にもわかるような言葉づかいで書かねばダメだという理屈は、ちょっとときどきプラスにもマイナスにもひっかかりますけれど、誰にもわかることだったら敢えて自分が書くことはないし、自分にもわからないことを書けるからブログの意味があるような気もするし、どうせ自分がいちばんの読者なのだから、「ウソは書かない」ということだけを新庄に、いや真丈に(Ebichan かよ)、いや信条に、いや身上に、思考のincubine いやincubus いやincubator としてのブログという側面をちょっと展開してみるのもいいかなーと。(以上で前説おわり)

  ウィキペディアの日本語の「疑似科学」英語の "Pseudoscience" も、歴史的な説明はいちおうあるけれども、関心は主として同時代的な感じがします。いわゆるソーカル事件やらナンタラ水の商売問題とか、WEB上でもなじみの(?)出来事が学界や社会で起こっている現代ですから、まあわかりますけれど、自分の関心はカール・ポッパーが擬似科学を定義して云々という20世紀の科学哲学的状況の前の、19世紀前半の1830年代40年代に爆発的にアメリカで流行った、メスメリズム(催眠術)や動物磁気説や骨相学や観相術やホメオパシー(同種療法)など、のちに擬似科学とされることとなったもろもろの運動・理論・思想・技術にあります。個人的専門でいうと、アメリカの作家のホーソンやポーやメルヴィルたちが影響を受けた擬似科学。

  たとえば、とたとえを出すと本題に入ってしまってハナシが重たくなりそうなので、画像でいきますが、マーガレット・フラー 〔この日本語ウィキペディアの断片的な記述なら、こっち(「[PDF] <実際の例> フラーのフェミニスト言説をめぐって」)の福岡撫子(誰でしょう)さんの断片のほうがまだまとも〕という、フェミニズムのハシリのような人がいて、文学サークルにも交わっていたのですが、彼女の有名な記念碑的著作『19世紀の女性』(1845年)の扉にはつぎのような挿絵が入ってました。――

Frontispiece_MargaretFuller_WomenintheNineteenthCentury (1845).jpgこれだけクリックでかなり拡大
Frontispiece to Women in the Nineteenth Century (1845)

  これは、このブログでも何度か言及した自らの尾を食う宇宙ヘビ、ウロボロスですね。で、これのどこが擬似科学なんだ、と言われれば、別に擬似科学ではないんです。が、メスメリズムに関心をもっていたことで知られるフラーは、前々年の1843年にボストンで出版されたThe History and Philosophy of Animal Magnetism by "A Practical Magnetizer" という本を目にしていた可能性があります。この『動物磁気説の歴史と哲学』という作者不詳の本の最後にはつぎの図版が載っていました。――

ClosingImage_TheHistoryandPhilosophyofAnimalMagnetism(1843).jpg
The History and Philosophy of Animal Magnetism (Boston, 1843)

   ヘビの向きが逆ですが、ウロボロスのなかに太陽のようでもあり目のようでもある TRUTH が(フラーのように六芒星みたいなふたつではなくてひとつの三角形のなかに入って描かれています。そしておそらくメスメリズムの術を支えるものとしてFAITH, POWER, WILL の三つの相が三角形を成している。その中心からのrays は、フラーの絵では宇宙ヘビの外側まで伸びているようです。

  もうひとつ、1844年7月13日にフラーがエマソンに送った手紙に載っていたらしい "Serpent, triangle, and rays" の絵のもとになった、フラーの日記に登場する自筆のスケッチ――

DoubleTriangle,SerpentandRays_MargaretFuller (1844journal).jpg

"Double Triangle, Serpent and Rays" (July 1844 Journal)

   これは、ウロボロスの向きが1843年の本と同じです(細かいw)。ray は外でだけ発光(?)しているようです。

  さて、フラーはデザインをパクッたんじゃないの、というのが主眼ではなく、神秘学的な伝統的なイメジが、同じ時代の著作に変奏的にあらわれ、その理由がどうやら思想的に通底しあうものをもっていた(あるいは通じると考える人たちがいた)からだ、というところに興味があります。

  ソーカル事件については、山形浩生のWebサイトをあれこれ読んでいたときに、おくればせに勉強しました。事件ののちの1997年にアラン・ソーカルはジャン・ブリクモンと共著で『知の欺瞞〔知的詐欺〕』を出版して、ジャック・ラカンジュリア・クリステヴァジャン・ボードリヤールジル・ドゥルーズフェリックス・ガタリ といったフランスを中心としたポストモダン思想家における自然科学用語のランヨウを指摘し、それはそれでもっともなところもなきにしもあらずだと思われます。

  しかし、ラカンやクリステヴァらの象徴界やら想像界やらなんたら界という用語には昔から頭が痛いと思っていたモーリちゃんの父でしたが、その後、そもそも精神分析自体がカール・ポッパー以来擬似科学に入れられているという話を知りました。やれやれ。ということでハナシが混乱しないうちに、このへんでイントロはしめておきます。次回、精神分析と心理学の話から入ります。たぶん。

needle-beadx200.png

ウィキペディアの日本語の「疑似科学」英語の "Pseudoscience" 

山形浩生 「『「知」の欺瞞』ローカル戦:浅田彰のクラインの壺をめぐって(というか、浅田式にはめぐらないのだ)」[Asada's Mistake with Klein Bottles] <http://cruel.org/other/asada.html> 〔2000年10月-2002年4月〕

黒木玄「浅田彰のクラインの壺について」 <http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/FN/asada-klein.html> 〔2001年8月。氏のホームページを久しぶりに見たら、今年9月に7年ぶりに更新していました。しかしちょっとリンク切れが多いような・・・・・・〕

黒木玄「『「知」の欺瞞』関連情報」 <http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/FN/> 〔同じく同じ感じ〕

アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン著 田崎晴明ほか訳 『「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用』 岩波書店、2000年― ビーケーワン  アマゾン


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December 28-29 擬似科学をめぐって(2) 魂の学としての心理学 On Pseudosciences (2) [短期集中 擬似科学 Pseudoscience]

December 28, 2008 (Sunday)
December 29, 2008 (Monday)

  別に精神分析や心理学の非科学性とかを問題にしようとしておったわけでもおるわけでもないのですが、つらつら考えてみると、psyche (魂)の学としての psychology の来し方(行く末)は近代的な知(science とは本来的に「知」だったわけだけど)のありようを考える鍵であるような気もしてきたので、一見(まだほとんど始まってもいない)本筋から離れるように思えるかもしれないけれど、思うところを勝手に記してみます。

   カール・ポッパーが精神分析を擬似科学としたのは、「反証可能性」(たぶん英語だと "falsifiability" (=refutability))のなさによるということです。「精神分析学は反証可能性を持っておらず、たとえ精神分析学が間違っていようとも、うまく言い逃れができてしまう構造を精神分析学は内包しているからである」(「疑似科学-Wikipedia」)。

  まあ、ことは科学の定義によるわけで、どうでもいい(当事者にとってたぶんよくはないが)のですけれど、ひとつには、こういう考えに抗して科学であることにこだわる勢いがいまの心理学に強いことと、もうひとつには、この種の定義がいかにもアトヅケで、いかにも近代以降の(つまり神とは無縁の)自然科学的世界観によるものだということがわかってきます。

  それで、興味深いのは、あくまでウィキペディアという限定Web的な空間で観察されることでしかないけれど、心理学のたぶん本筋にいる人(あるいはそれに共感する人)の記述として、つぎのような文章があることです。注の18番――

ただし現代のアカデミックな心理学まで疑似科学だと誤解しないように注意する必要がある。現代のアカデミックな心理学はおおむね科学的方法を守っている。(フロイトなどの)精神分析学は、心理学の本流ではなく、あくまで傍流である。それについては心理学の項の「誤解」の節も読むこと。

  ここでまた、科学の定義によるわけで、よくわからんのだけれど、しかし、ふつうに読めば、現代のアカデミックな心理学は「科学」であり、精神分析学は科学ではない(=「疑似科学」である)かもしらんが心理学の傍流にすぎない、と読めます。

  この「科学」へのコダワリはなんなのでしょう。別に文学だって哲学だって倫理学だって科学じゃないんだし、心理学だって科学じゃなくていいじゃん(爆)。

  ウィキペディア「心理学」の「歴史」の見出しの最初には、つぎのように書かれています。――

 「心理学」としての歴史

心理学が1つの独立した科学分野として創成されたのは、19世紀後半(一般的には1879年とされる)にヴィルヘルム・ヴントがライプチヒ大学にて心理学専門の研究室を構えた時であると説明されることが多い。しかし、それまでにもヤング=ヘルムホルツの三色説など、今日の心理学の一部となる研究は既に行われていた。心理学独立以前の研究はマッハの主観的明るさの研究など物理学者の哲学的考察によるものが多い。心理学は直接的には哲学から派生したと見なすことができる。

  この記述のなかの「独立した科学分野として創成」という限定――つまり、単に「創成」ではなく「独立した」「科学」分野としての「創成」――が、心理学ということば(それも日本語の「心理学」)とどのようにレトリカルに係っているのか不明だけれど、少なくともpsychology ということばは、古くからあるのが事実です。ナルニアで有名な C. S. Lewis (ルイスは英文というか国語国文学の先生だったから、コトバの歴史について本があったりする)が『語の研究』でたしか述べていたように、単に「心理」の意味で使われることもあった(だれそれの「心のありよう」=psychology、みたいに)。けれども「学=science」としての psychology も古くからあったのも確かです。

    日本で放送大学の心理学の歴史の講座とかなんか断片的に見た記憶はあるのですが、遠いミソラで日本語百科事典も参照できない、限定Web的な存在であることを率直に認めたうえで、だからこそ、ウィキペディアというポピュラーな「知」のなかで云々するという怠慢を許していただきたいのですが(めずらしく殊勝です)、英語のWikipedia の "Psychology" も日本語のほうも、歴史的記述としては大差ないです。モーリちゃんの父の勝手な認識だと、イギリスのジョン・ロックの経験論的認識論が心理学へ直結するのだけれど、ウィキペディアはなにもバックアップしてくれないので、わからんですが、大風呂敷を広げておくなら、17世紀にプラトン的リアリズム(イデアが真実在であり、目に見えるこの世的世界は仮象にすぎない)から現代的なリアリズム(つまり現実のモノの世界こそがリアルである)へと大転換が起こる、そのときに、idea が人間の心(頭)の内なる「観念」に人間化されてしまう、という事態があったのだと考えています。ロックの認識論は心理学的と言えるかどうかはともかく、記憶のメカニズムについて語るものでした。

  『オックスフォード英語大辞典』の "psychology" の定義の1番は「人間精神(human mind)の(かつてはまた魂の(formerly also of the soul))性質、機能、現象についてのscience」となっていて、17世紀からの用例が挙がっています。そして、めずらしく語源欄(これ自体はギリシア語のプシュケーとロゴスの合成、というごくありきたりの記述なのですが)には、数十行に及ぶ "Notes" が付いていて、ちょっとウィキペディアとかには書いていないようなことが書かれている。ように思えます。――

 [Note. Neither this word nor any of the group existed in Greek. Psychology began, in the modern Latin form psychologia, in Germany in the 16th c. It is said by Volkmann von Volkmar, Lehrbuch der Psychologie, 1875, I. 38, to have been used by Melanchthon as title of a prelection, and it was employed by J. T. Freigius in 1575; but was introduced into literature, 1590–97, by Goclenius of Marburg and his pupil Casmann (Psychologia anthropologica. sive animæ humanæ doctrina). It was thenceforth usual to consider Psychologia and Somatotomia or Somatologia as the two parts of Anthropologia, and in this sense the word is found frequently in the medical writers of the 17th c., as in Blancard's Lexicon Medicum, 1679, and in French in Dionis, Anatomie de l'Homme, 1690. Our first Eng. quot. of 1693 is from a transl. of Blancard. In French, according to Hatzfeld-Darmesteter, it had been used in the 16th c. by Taillepied in the sense of ‘the science of the apparition of spirits’. In a philosophical sense, it was used by some (Latin) writers, as by Thomas Govan (Ars Sciendi sive Logica, 1682), by whom Physica or Natural Science was divided into the domains of Pneumatologia the science of spirits or spiritual beings, and Somatologia or Physiologia the science of material bodies; Pneumatologia contained the three subdivisions, Theologia the doctrine of God, Angelographia (incl. Demonologia) the doctrine of angels (and devils), and Psychologia the doctrine of human souls. The modern sense begins with Chr. von Wolff (Psychologia Empirica 1732, Psychologia Rationalis 1734); followed by Hartley in England 1748, and Bonnet in France 1755. The term was also employed by Kant, but was not much used in the modern languages before the 19th c.]

  すいませんが、ここで一度切ります。

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参考urls

・科学――
「科学-Wikipedia」 <http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%91%E5%AD%A6> 〔三つの意味の幅に分けています――「(広義)体系化された知識経験の総称であり、自然科学人文科学社会科学の総称。 /(狭義)科学的方法に基づく学術的な知識学問。 /(最狭義)自然科学。 」 いわゆる科学は最狭義というのが自分の感覚ですが、心理学みたいなのを科学とするのは狭義の科学ということになる。そのとき(科学的)方法こそが問題になるのでしょうか〕

・心理学関係のウィキペディアの記事とか――
「心理学」 <http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E7%90%86%E5%AD%A6> 〔とりわけ「誤解」の項のひとつめ――「フロイト精神分析ユングの理論などは、心理学アカデミズムの外側で生まれ育ったものであり、また半世紀にわたって科学的心理学の立場から多くの批判がなされてきた。それにも関わらず、「フロイトが心理学の祖である」、「精神分析こそが心理学の基礎であり、本流である」というような、時代錯誤的な誤解が存在する」〕
「精神分析学」 <http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E5%88%86%E6%9E%90> 〔とりわけ「科学としての出発点」の項――「フロイトは自然科学者であったから、彼の目指すものはあくまでも「科学」としての精神療法であった。彼の理論の背景には、ヘルムホルツ(1819-1892)に代表される機械論的な生理学唯物論的な科学観があった。脳神経と心の動きがすべて解明されれば、人間の無意識の存在はおろか、その働きについてもすべて実証的に説明できるようになると信じていた。それゆえに、彼は終生、宗教もしくは宗教的なものに対して峻厳な拒否を示しつづけ、その結果ユングをはじめ多くの弟子たちと袂を分かつことにもなる。こうした原点を無視して、「精神分析は科学ではない」と早計に断じることはできない。」〕
堀江宗正 「宗教思想史のなかの心理学――一神教心理学と多神教心理学」 <http://homepage1.nifty.com/norick/psy-in-reli.html> 〔タイトルはなにやらよくわかりませんが、示唆的。ただしtrichotomy ではなくて心身一元論/心身二元論のdichotomy 二分法的思考に立っているので混乱か・・・・・・もうちょっと熟読しないとなんとも言えません〕

・むかしの中世ヨーロッパの学問やそこに由来する学問体系についてわかりやすく語っているものなど――
「エコロジーとエコノミクス」 <http://it1127.cocolog-nifty.com/it1127/2004/07/post_35.html> 〔it1127の日記 2004.07.30〕
久保田慶一 「日本教育大学協会全国音楽部門大学部会 No. 9 リベ・アーツとしての音楽」 <http://music.geocities.jp/kyoudaikyo_m/liberararts.html> 〔なぜ「ラル」がないのかしら〕
「音楽学 - Wikipedia」 <http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E5%AD%A6> 〔なるほど、そうなるとやっぱり「文学学」という言葉もあっていいかもね〕
「リベラル・アーツ - Wikipedia」 <http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E4%B8%83%E7%A7%91> 〔「自由七科」について〕
(倫理学) 山内 志朗 教授 慶應義塾大学文学部|早稲田塾公式サイト」 <http://www.wasedajuku.com/wasemaga/good-professor/2008/06/post_296.html> 〔あんまり関係ないけどメモ的にw 読み書けて日本に置いてきた『天使の記号学』の著者〕

・天文学 (astronomy) と占星術 (astronomy)など――
「天文学史 - Wikipedia」 <http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%96%87%E5%AD%A6%E5%8F%B2> 〔年表は紀元前2000年より。「天文学の起源」の記述あり。「古代ヨーロッパでは占星術(astrology)と天文学(astronomy)の呼び分けはなく」との記述あり。〕
「占星術- Wikipedia」 <> 〔これの「占星術と科学」の項は興味深いので一部を引いておきます。〕

占星術と科学

占星術は、プトレマイオス以来の地球中心説(天動説)の宇宙観を引きずっており、地動説に基づく現代科学とはまったく別の体系の技術であると考える必要がある。

天文学との関連

占星術が、数ある占いの中で最も古い起源を持ちながら今なお最も広範囲に親しまれている一因として、古代以来絶えず「天の意」を知ることを求め続けた人類にとって社会的・文化的に重要な理論体系として――一貫性や普遍性は欠くにせよ――発展し続け、また現代の主要な世界観としての自然科学の母胎のひとつとなったことが挙げられる。(普遍性を前提とする学問は、哲学的な意味での「批判」の対象とはならず、「科学知の客観性」を前提とした数百年続く「因果律による科学的思考の盲目的な礼賛」である可能性がある)。

ケプラーの法則天文学史上に名を残すヨハネス・ケプラーが天文学者・数学者であると同時に占星術師でもあったことや、ドイツ観念論を代表する哲学ヘーゲルが大学教師の職に就くための就職論文が『惑星の軌道に関する哲学的論考』であり、その中で惑星の運動を本質的に解明したのは物理学的に解析したニュートンよりもむしろケプラーであると評していることからも分かるように、自然科学としての天文学は天体(主に惑星)の不思議な動きに意味を見出だそうとした占星術から派生したものである。

そしてケプラーが「このおろかな娘、占星術は、一般からは評判のよくない職業に従事して、その利益によって賢いが貧しい母、天文学を養っている」[1]と書いたように、権力者が占星術には金を出すが、天文学には支援しないという状況があったことも、この両者がある時期まで一体的に発展してきた一つの社会的要因と考えられる[2]

占星術と自然科学

近世以降においては占星術は自然科学の体系から完全に離れてしまっており、現代の科学的地平からは、占星術による未来予測について自然科学的な根拠は提示されていない人間性格運勢国家の運命などを、天体の動きと結びつけることは、天文学物理学的には行われていない。現代の多くの占星術専門家も、現代自然科学の枠組で占星術を理解することはきわめて困難であると考えている。(ソルボンヌ大学の心理学者ミッシェル・ゴークランは火星と職業の相関関係を調査し、ドイツのナチス副総統ルドルフ・ヘスの顧問占星術師カール・エルンスト・クラフトは占星術を統計学的に調査した。また同じくソルボンヌ大学のディーン・ルディアはユング占星術、すなわち「占星術の心理学的アプローチ」に対し、「心理学の占星術的アプローチ」を行い、後の西洋占星術における「ザビアン占星術」に貢献した。)

占星術と心理学

近代において占星術に積極的に取り組んだ研究者は、むしろカール・ユングに代表される心理学者などである。ユングは因果律ではないシンクロニシティ、あるいは「意味のある偶然の一致」という考え方を示そうとして、占星術を援用した。この事情もあり、イギリスを中心とする現代の占星術師や占星術研究家と称する人々の中には、心理学を援用しようと試みている人も少なくない。

 



 


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December 29-30 擬似科学をめぐって(3) 魂の学としての心理学 (つづき) On Pseudosciences (3) [短期集中 擬似科学 Pseudoscience]

December 29, 2008 (Monday)
December 30, 2008 (Tuesday)

   承前

  "psychology" に付された『オックスフォード英語大辞典』の「注」が語っているのは、以下のようなことです。――(「プシュケーの学」というギリシア語に由来するけれど、ギリシア語そのものにpsychology をあらわす語は存在したわけではなくて)psychology ということばの始まりは、近代ラテン語psychologia のかたちで、16世紀のドイツにおいてである。人文主義者のメランヒトン Melanchthon (, Philipp 1497-1560) が講義のタイトルに使った、あるいは Freigius (, Johann Thomas, 1543-1583) も1575年に口頭で使ったようだが、文献としては1590年代に、マールブルグの Goclenius と弟子のCasmann が Psychologia anthropologica. sive animæ humanæ doctrina で使用した。その後、Anthropologia の二つの部分としてPsychologiaSomatotomia (ないしSomatogia) を考えることが一般化した。そしてこの意味で、psychologia の語は、17世紀の医学者の書くものに頻繁にあらわれる――たとえば Blancard の1679年の Lexicon Medicum 『医学事典』とか、フランス語で、Dionis の1690年のAnatomie de H'Lomme 『人間の解剖』とか。この辞書に挙げた英語の文献の最初のものはBlancard の英訳で1693年。Hatzfeld-Darmesteter によれば、フランス語ではこの語を16世紀にTaillepied は "the science of the apparition of spirits" 〔霊の出現の科学〕 の意味で使用したという。哲学的な意味では、ラテン語著述家の一部がこの語を使用した。たとえばThomas Govan (Ars Sciendi sive Logica (1682))は、Physica つまり自然科学を二領域に分け、霊あるいは霊的存在の科学であるPneumatologia と物体の科学であるPhysiologia とした。Pneumatologia は三つの下位区分があり、神の教義であるTheologia 〔神学〕、天使(と悪魔)の教義である Angelographia 〔天使学〕(Demonologia 〔悪魔学〕を含む)、そして人間の魂の教義であるPsychologia であるとした。現代的な意味の始まりは、Christian von Wolff, 1679-1754 の Psychologia Empirica (1732)、Psychologia Rationalis (1734) である。この語はカントも使用したが、19世紀になるまでは近代諸語ではそれほど使用されなかった。

  前段の医学関係では、というので出てくるsomatotomia とかsomatologia の "soma" はギリシア語の「体 body」です。だから、人間 anthropos を体と魂に二分して、後者のほうを医学的に扱うのがpsychologia という意味です。

  よくわからないのはHatzfeld-Darmesteter (誰でしょう、調べていません [30日朝追記 調べました。Adolphe Hatzfeld, 1824-1900 アドルフ・ハッツフェルド と Arsène Darmesteter, 1846-88 アルセーヌ・ダルメステテールというふたりのフランス人学者による2巻本の辞典Dictionnaire général de la langue française (1895-1900)])がいうにはなんたらいうフランス人は霊的出現の学、ということは幽霊学ですかね、の意味で使ったと。

    さらに17世紀のThomas Govan さんは Pneumatologia 〔霊学〕――pneuma はやっぱりギリシア語で「霊」――を Physiologia (この語の英語のphysiologyは文字どおりには natural science をあらわす言葉だったはずですけれど、その後の歴史では「生理学」ですね。ちなみにphysiognomy というと擬似科学のひとつとなる「観相学」です) と二分して、前者のpneumatology の下位区分にpsychology を入れる。

  こういうことからあらためて強く意識させられるのは、ヨーロッパの思想において、いかにbody と soul の二分法が力をもち、逆にいうと soul と spirit の区分がいかに曖昧であったか、ということです。

  つまり、人間存在を構成するものは何か。あるいは人間とは何か。

  ここで歴史的な見取り図をおおざっぱに透視(といってもclairvoyance ではなくて単なる perspectiveですw)しておくと、中世において霊と魂を区分するトリコトミーが異端視される→17世紀にデカルト的二元論が主張される→実証主義的科学主義が力をもつ→唯物論的思考が力をもつ→人間は物質的に解析される→20世紀後半心身論がさかんに議論される→心は脳に還元される→唯脳論(爆)

  もっと簡単に書くと、psychology に即していえば、霊・霊魂・魂→精神 psyche [soul]→心・心理 [heart]→知・認知・知能[mind=head]

flow2.gif

  なんか本来考えていたことからどんどんそれそうなので戻ります。

  いずれちょっとくわしく述べますけれど、19世紀前半から中葉の擬似科学の中心にあったのはメスメリズムと言っていいと思います。mesmerism は hypnotism (hypnos はギリシア語で眠りsleep の意味)の同義語という側面もあり、つまり催眠術ですが、名前のもととなったメスマーさん自体は「動物磁気説」を唱えました。星辰界と地球・人体との影響関係を説く動物磁気説自体はアカデミズムから退けられますが、磁気を利用したメスメリズムの技術は医学界では19世紀末まで利用され、催眠術は第一にオカルティストの間で尊重され、第二に「奇術師」の間でも尊重される、と同時に初期の精神分析学でも重要な役割を演じることになります。

    前回にあげた「精神分析学」のほうのウィキペディアの記事でフロイトのふるまいについて触れている箇所を引いておきましたけれど、フロイトは個人的には超自然現象とか霊媒とか超能力とかに関心があったにもかかわらず、学問的にはそういう「超常的」なもの、心理学を超える超越的なもの、を抑えて(あるいは心理に還元する形で――たとえば悪魔はイドに、天使は超自我に――)無意識理論を展開したのだと考えられます。ウィリアム・ジェームズみたいな人は、ある種の能天気さで超常現象とかをまともに論じますから歴史的にはダメなんだろうなあ。

  一つの問題は、神あるいは神学と世俗の学問領域との関係が積極的に断ち切られて以降の学者のふるまい(宗教問題は棚上げ、というよりむしろタブー視される)の微妙さにあるかもしれません。宗教学者は必ずしも宗教を信仰しない、というのは文学研究者は必ずしも文学作品を書かないというのよりは意識されない事実かもしれませんが、belief はむしろ学問なり科学的探究の邪魔になるという了解はあったりするのかもしれない。これは素朴に考えると、たぶんゆがんでいておかしいのだけれど(あくまで素朴に考えてです。たとえばAを批判するためにだけAという対象に没頭するというのはなんなんだろう。まあ、いいけど。愛があったほうが生き方としてはよいと思われ)。

  また話がそれました。それで、あくまでウィキペディア内での比較ですけれど、心理学史は、天文学史が積極的に歴史を遡ると同時に占星術についても記録するのと対照的に、19世紀末に起こった、として、前史(?) をあたかも抑圧しているかに見えるのでした。

  けれども、その「学」的内実がいかなるものであったにせよ、それ以前からあったし、19世紀前半の擬似科学内においても、通用する言葉としてありました。たとえば、1842年ニューヨークで創刊された雑誌 Magnet の創刊号表紙――

MagnetVol.jpg

  これは動物磁気説とメスメリズムの雑誌なわけですけれど、左右の枠に左下から順に "PHYSIOLOGY, PHRENOLOGY, PHYSIOGNOMY, PATHOGNOMY, PSYCHOLOGY, MAGNETISM." と記されています。同様に "psychology" が入った表紙は、Fowler の骨相学雑誌でもそうだった記憶があります。

  ここで、この頃のpsychology はいまのpsychology 、まして日本語の「心理学」とは別物で関係ありません、という態度をとることはできます、もちろん、とりたければ。

  けれども、いったい何を棄てて、現代の「科学」(それも「擬似科学」を峻別するたぐいの科学)は成立しているのかを考える材料となるのは明らかでしょう。そして、それは、もはや前近代とはいえない19世紀前半において人々が「擬似科学」に何を求めていたのか、その求めていたものは現代人と無縁の迷信的産物でしかないのかどうかを考える材料にもなるでしょう。もっとも現代とまったく同じしょうもない擬似科学問題でした、というオチもありえますがw。

 

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  書いた後で次の短いけどむつかしげな哲学論文を見つけました。R. G. コリングウッドがpsychology について論じている文章をDavid Pierce という人がOED を引証して論じています。いずれトリコトミーがらみで言及できたら言及します。――
David Pierce, "Notes on Collingwood's Principles of Art" <http://www.math.metu.edu.tr/~dpierce/philosophy/Collingwood/Principles_of_Art/art.pdf> 〔HTMLバージョン

 


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December 30-31 擬似科学と科学についての覚え書――擬似科学をめぐって(4)  On Pseudosciences (4) [短期集中 擬似科学 Pseudoscience]

December 30, 2008 (Tuesday)
December 31, 2008 (Wednesday)

   短期集中で1日5個ぐらい記事を書いて年内に終わらせる算段だったのですが、書き出してみると、ぜんぜん思ったようにはいかないのでした。勉強になりました(w)。

  もう日本は2009年を1時間22分過ぎたところで、いまこの文字をカリフォルニアで書き留めております。カリフォルニア時間は2008年12月31日午前7時22分です。

  ちょっとスタイルを変えて、くだけて書いてみます(またすぐ戻るかも)。

  さて、まだ概念規定もしておらなかった(というかまあウィキペディアに任せてもいいか、とか思ってもいたのですが)のですが、「擬似科学」(「疑似科学」)は pseudoscience の訳語で、発音はアメリカ英語だと「スードー」サイエンスですね。イギリスだと「シュードー」。その点、日本語ウィキペディアの脚注の1の「英pseudoscience (発音:/sudoˈsaɪəns/シュドサイエンス)) の訳語であり、「虚偽の」を表すギリシア語のψευδήςpseudēs プセウデース)と、「知識・学問・学術」を表し、英語のscienceの語源でもあるラテン語のscientia(スキエンティア)の複合語である。 」はちょっち間違っています(得意の重箱の隅つつきw)。シュドじゃなくてシュードーって伸びるし。ちなみに修道と区別するためか、衆道は「シュドウ」と発音されるのですけどね。修道士をシュドウシと呼んだらエラいことになりんす。

  ということで、科学を装っているが、科学ではない、偽りの科学ということです。ちなみに「偽りの愛」を思い浮かべて pseudolove で検索をかけると、大量にヒットします。が、どうやら「擬似恋愛」という日本語に相当するようで。なるほど。

  さらに堕ちるようにくだけてみると、擬似セクスと本番という対語が昔ありました。あ、死語ではないのですね。よいこは検索かけないように。

  しかし恋愛とは何か、とかセクスとは何か、とか定義が困難、というか仮に定義してもそこからポロポロとこぼれおちるものがある――たとえば有名な新明解の「恋愛」の定義ははなから定義になんかなっていない――孫引き的にうただひかるまだがすかるさんの記事「れんあい (0)【恋愛】」を参照。

  科学は、愛やセックスに比べると、それこそはるかに科学的で、科学的な定義が可能であるかに思われる。が、実はそうでもない。あらためてウィキペディアの「科学」の冒頭の分類をあげるとこうです。――

 

いちばん上のが、「知」としてのscience です。いちばん下のがいわゆる「科学」だと自分には思われます。まんなかのは「科学的方法」という、それ自体が「科学」を含むことばで限定されているところがいかにも怪しげな定義ですw。つまり、科学的方法に基づいていれば科学なのか。しかし「科学的方法」を読んでもその方法自体が明確ではありませんでした(あくまでウィキペディアの記事のはなし)。 

  第一節「科学的方法の概要」の前段ではデカルトの古典的な方法が述べられる。――

科学的な方法の古典的な基本は、17世紀にデカルトによって示された以下の原則である[3]

  • 明瞭判明の規則:明らかに真理と認められたものだけを判断の基準とする。
  • 要素分解:解決可能な要素に分解して考察する。
  • 具体から抽象へ:単純なものから複雑なものへと順番に認識をすすめる。
  • 総合:見落としがないことを十分に確かめて、完全な列挙と再構成により全体を再構成する。

この枠組みについて現在の科学的方法を論じる上では若干の修正や適用範囲の制限を行わねばならないが、 放送大学教授濱田嘉昭が「現在でも研究論文を書きあげる指針として十分光を放つものである」と明言しているように現在でも学ぶ点が多い考え方である。

  この、もってまわった言い方はなんなのでしょう。だいたい「明言」しているナカミは「論文を書きあげる指針として十分光を放つものである」であり、この光を放つというのは科学的メタファーなんでしょか。

  その次には「現代の「科学的方法」に関する一つの指針としては、アメリカ科学振興協会による報告書、「すべてのアメリカ人の科学」がある。」 と書かれ、調査プロセスにおける「仮説の構築とその検証」、論証プロセスにおける「適切な証拠への依存」、「明確な結論の存在」、「証拠と結論を結ぶ適切な推論過程の存在」を特徴として挙げている。要するに「仮説」と「実証」ですよね――モーリちゃんの小学校5年の科学の教科書でもさんざんぱら出てくる基本。

  第二節の「科学的な方法の対象」では、「科学者の間に見解の相違がよく見られる」けれど、「科学は再現の可能な問題に適用範囲が限られる」、「測れるものが科学の対象」というふたつの発言が引かれて、「再現性があり定量的な測定が可能」であることが理想的には求められるとしています。だけど、「例えば医学・薬学・心理学・経済学などは、根本的に複雑性や複合性を内包していて再現性を得にくい生体や社会そのものを扱うが、これも現代では科学的な考察対象である。」 

  ということで、(ウィキペディアの記事の論理にのるならば)自然科学以外の学は、科学的方法によることで科学になるようなのですが、その科学的方法は理想的でなくてもよいということなのでした。

  ちょっと気になったのは、科学的方法なるものを重んじることが大事な分野はあると思いますけれど、数量化することで「科学性」を装うことがおしなべて学問で重要であるかのようなプレッシャーなり勘違いが人文学にも及んでいなかったか(まあ、文学関係だと、特定の名詞や形容詞の頻度とか数値化して統計とって出しても、その結果はそういう「科学的方法」によらぬ解釈の裏付けにしかならんのですけれど)。ついでに、ふたつめに、「質的心理学」(*)というのが心理学のフロンティアとしてあるのだそうですが、つまり行動とか生理とか心の働きと結びつく現象を数量化して計測することで「科学」としてひとりだちした心理学からこぼれ落ちてしまったのこそが「質」であるという反省が、そこにはあるらしい(ものすごい勝手な感想ですが)。ついでに、みっつめに、ああそういえば、『空想より科学へ』をエンゲルスが書いたのは19世紀後半だったなあ、やっぱ唯物史観をマルクスが唱えたから経済学は科学になったのかなあと(そんなことはないですか)。

   しかるに、英語のWikipedia の "Natural philosophy" を見ると、冒頭で、社会科学や人文(科)学と「科学的方法」の有無で区別をしてますねー〔午後2時追記 新年早々読み間違えていました。人文科学も社会科学も科学的方法を用いる点では同様で、力点は "natural" にあって、区分は形容詞でしかないですね。最後の数学と論理学はアプリオリな別種の方法論だから、科学じゃないという含みがあるのかしら。この英語はあいまいですね。〕―― "The term natural science is also used to distinguish those fields that use the scientific method to study nature from the social sciences and the humanities, which use the scientific method to study human behavior and society; and from the formal sciences, such as mathematics and logic, which use a different (a priori) methodology."  経済学ってsocial sciences の女王じゃなかったのかしら。あ、natural sciences の王の物理学と結ばれているって? なこたないか。まったくよーわかりません。結局、このよーわからなさは、science の意味が変容して「自然科学」に集中しながらも、「知」という意味をずっともっている、という事情に由来するようです。〔午後2時の追記の続き となると、この英語のウィキペディアは、根本的には日本語でいう人文科学も社会科学も自然科学も科学であり、しかも科学的方法を用いる科学である、という考え方ですね。大学院の人文科学研究科の文学とか史学とかどうなるんだろw。べ別の書き方をするなら、大自然を扱うのが自然科学、人間的自然 human nature を扱うのが人文科学、そのあいだの世界における人間の関係 society を扱うのが社会科学みたいな感じでしょうか。しかし、たとえば、もはや古いかもしれないのだけれど、そもそもカール・ポッパーが反証可能性みたいなことを言ったのは、(ウィキペディアは反証可能性の概念は科学擬似科学の判定基準として提案された、と言っているけれど)、科学と科学以外を分けるためで、科学以外(非科学)の側に、ひとつには哲学や神話や宗教や形而上的な定式化を置き、もうひとつに擬似科学を置いたのではなかったのかしら。たとえば神が宇宙を創造した、という命題は真かもしれないし偽かもしれないが、偽であることを証明する試験が不能だから、こういうのは科学のラチ外にあるという判断。〕

  ともかく、そもそも「科学」なるものが「科学的方法」をとなえながら「自然科学」を中心とは言えずとも自然科学的世界観を中心にして分化・発展するのがたぶん18世紀後半からのことではなかったか。いいかげんなことを書いているとまずいので、毎度ですが、権威を引きます(だいたい失敗するのですが、今回はまともかな)。哲学者の坂部恵は、『講座ドイツ観念論』第二巻の総説で、ヨーロッパ世界の哲学を大きく三つの主要な時期に区分して考え、第一を9世紀から13世紀、第3を1770年から1820年という転換期を基点としてそれ以後、今日にまで及ぶ時期としています。そして、第三の時期のあたまの転換期の記述――

この一七七〇年~一八二〇年という時代は、そのうちに含まれるフランス革命と産業革命という二つの大きな革命に象徴されるように、いわゆる、近代ヨーロッパの歴史におけるとりわけて大きな転換の時期にほかならない。〔……〕文化史に関していえば、この時期は、とりわけ、第一に、物理学、化学、生物学、医学等々の近代自然科学の〈個別科学〉としての独立と成立、そして当然産業革命のいっそうの進展にともないつつ、つづいて来るひろい意味での実証主義的風潮の下地が整えられた時代にあたり、第二に、いわゆるロマン主義の登場の時期として、人間の共同的生やあるいは人間と自然の共生の形態の一種危機的な変容に伴って、美と芸術の人間的価値の担い手としての意味があらためてひときわ自覚・主張されまた個的存在としての人間の歴史意識の根底があらためて問題とされた時代にあたる。 

  ドイツ哲学の本だけれど、社会、芸術、産業、科学の転換についての汎欧米的な記述として読めると信じ、引用しました。この個別科学の独立と成立の時期と同じころに、擬似科学の萌芽があり、その後の1830年代、40年代に(「実証主義の風潮」に)揉まれて転換したり合体したりしたんじゃないかというような仮説を立ててみます。アメリカでの問題は、むかしの日本と同じく、ヨーロッパよりちょっと思想が遅れて流行する、という点で、ヨーロッパでロマン主義が下火になってもアメリカでは南北戦争ごろまではロマン主義の時代と言えますし、ヨーロッパでリアリズムが起こっても、なかなかリアリズムへ進まない(逆に言うと、混淆的なところがあって、それも日本と似ているかもしれない)。

  客観的な記述として覚え書に引きましたが、科学については、たとえばホーソーンが「あざ The Birth-Mark」(1843年)の冒頭で記述するように、18世紀後半の未分化な科学は神秘主義的といってもいいような情熱と結びついていたこと――これは擬似科学のみならず、たとえば「電気」にまつわる思索もそうです――は注意せねばならないと思われます。この点、日本語の本としては、新戸雅章「逆立ちしたフランヶンシュタインー科学仕掛けの神秘主義』(筑摩書房, 2000年)を参照。) ホーソーンの短篇には「自然科学 natural philosophy」ということばを使って、つぎのように書かれていました。――

前世紀の後葉に、自然科学のあらゆる分野に通暁していた一人の卓越した科学者が住んでいたが、彼はこの物語のはじまるすこし前に、化学上のいかなる親和力よりもはるかに魅力的な精神上の親和力を経験することになった。助手の手にあとをまかせて実験室を出た彼は、整ったその顔についた炉の煤を拭いとり、指についた酸の汚れを洗い落として、ある美しい婦人に自分の妻になることを承諾させたのである。電気や、ほかの同様な「自然界」の神秘についての比較的最近の発見が、奇跡の領域にはいりこむ道を開くかに見えた当時にあっては、科学への愛が、その深さと人を魅するその力において、婦人への愛と互角に並ぶこともさほど珍しいことではなかった。高度の知性、想像力、精神、さらには心情までがすべて、力強い知力の階段を歩一歩とのぼりつめて、ついには哲学者が天地創造の力の秘密に手をふれ、おそら、くは新しい世界を自分の力で創りあげることになるにちがいない探究――と、そうその熱烈な信奉者たちの若干は信じていたのだが――のなかに、それぞれに適した滋養物を見いだしかねない勢いだったのだ。私たちは、エールマーが、「自然」を支配しうる人間の究極的な力にたいするこれほどまでの信念をもっていたかどうかは知らない。しかしながら、彼は科学の研究にまことに心底から没頭していたので、それ以外のどんな情熱によってもその研究から引きはなされることはついになかった。(大橋健三郎訳「痣」)

  ホーソーンのマッドサイエンティストのひとりであるエールマーの「科学」は錬金術師の夢想「生命の霊薬 elixir vitae」を引きずっていて、それはシェリー夫人のフランケンシュタイン博士が錬金術の研究にふけったのちにそれは否定してどうやら電気を媒介にして生命誕生の神秘を探ったようなのだけれど、具体的な記述はテクスト内にはない、というのと通じるところがなくはないような気がします(SFなんてだいたい擬似科学的だしーw)。

  19世紀中葉以降、科学界から「擬似科学」として学問的に忌避されることになるメスメリズムやホメオパシーが世に問われたのは18世紀末でした。拒絶された擬似科学はしばしば神秘主義者やオカルティストと結びつきます(たとえば1879年に創立されるクリスチャン・サイエンスのメアリー・ベイカー・エディーがホメオパシー療法家と結婚していたことは重要ですし、1875年にニューヨークで神智学協会を設立するマダム・ブラヴァツキーは、動物磁気説を予言や交霊の背景に求めました)。しかし、オーストリアのメスマー(1734-1815)はもともとパラケルススに思想の源泉を得ていたし、ホメオパシーの創始者であるドイツのハーネマン(1755―1843)の医学理論もパラケルススに見いだされる。つまり科学によってオカルトへ追いやられる前からオカルトとの親近性をもっていたということです。そして、擬似科学をいっしょくたにして論じることはまずいのだけれど、たとえばメスメリズムについていえば、フランツ・アントン・メスマーは、1795年にパリの科学アカデミー(メスマーはこれか医学アカデミーか、どちらかに入りたいと願うのですが拒絶されています)の調査で、そんな磁気流体というような物質は存在しないと烙印をおされ、その後のスキャンダルもあってパリ追放となっているわけですけれど(つまり前世紀に一度否定されているわけですけれど)、1820年代に弟子のピュイセギュール(1751-1825)が新たな術の装いで登場し、いっぽうでトランス状態に落ちた被験者の発揮する透視能力や予知能力が話題となると同時に、外科手術における利用(1828年のマダム・プランタンの乳がん除去手術)が成功をおさめて、こんどは医学アカデミーの信用を得ます。アカデミーの委員会は、調査報告を1831年にまとめ、催眠術による「無感覚状態」の効果から「トランス状態」において術師に従うこととか、目を閉じたまま読む能力とかを追認します。それで、再びドーバー越えてイギリスにわたり、さらに大西洋を越えてアメリカに伝わったメスメリズムないし動物磁気説(animate things 生体(動物体)に特異の磁気があり、それは宇宙に遍在する磁気と交流しているけど、その流れを統御することで身体的・精神的状態は統御できるというふうにいったらいいかしら――まちがっていたら訂正しま~す)は、はなから「擬似科学」であったわけではなかったのでした。

MadamePlantin.jpg
Retrospective portrayal of the operation to remove the cancerous breast of Madame Plantin in 1828.  The surgeon, Jules Clocquet, is attended by a dozen witnesses.  Louis Figuier, Mysteres de la Science (Paris: Librairie Illustre, Renaudet, 1880).  Image via "A Historical Philosophy of Change: Mesmerism vs. Ether as a Model for Pain Medicine" <http://www.asahq.org/Newsletters/2003/08_03/cope.html> キャプション的説明は Alison Winter, Mesmerized: Powers of Mind in Victorian Britain (Chicago: University of Chicago Press, 1998), p. 43 による。

  日本語のウィキペディアの「フランツ・アントン・メスメル」は、『無意識の歴史』という大著(たしか秋山さと子さんが監訳していた)の Henri Ellenberger を引いて、悪魔払いのエピソードについて語っています。――

1775年、メスメルはミュンヘン科学アカデミーから、聖職者で信仰療法家のヨハン・ヨーゼフ・ガスナーJohann Joseph Gassner, 1727年 - 1779年)の行った悪魔払いに関して、意見を求められた。ガスナーが信仰のせいだと言うのに対して、メスメルは、ガスナーの治療は彼が高度な動物磁気を持っていた結果であると答えた。アンリ・エランベルジュHenri Ellenberger)によると、メスメルの世俗的概念とガスナーの宗教的信念の対立は、ガスナーの活動の終了と力動精神医学Dynamic psychiatry)の出現を運命づけたということである。

  ここのところが(たぶん)ややこしいのですけれど、ひとつに(もはや迷信的とも思われかねない)宗教的世界観があり、もうひとつに科学的な世界観がありそうなものですが、ふたつの対立は、さらに科学的と見える世界観のなかで対立を起こして、いっぽうは擬似科学とされてしまう。

  だから、また風呂敷を広げると、キリスト教の神中心の世界から人間中心の世界へと移行していく近代の流れ(いわゆる世俗化 secularization)の中で、世俗の人たちはあっさりと神や霊を棄てたわけではない、というようなことが問題になるんだろうと思われます。

(つづく)

  今、日本は元旦の6時になろうとするところです。新年おめでとうございます。カリフォルニア時間は2008年12月31日午後1時になるところです(ひつこいw)。  

  

(*) 「 「君の研究は科学ではない」,そんな言葉を投げつけられ気持ちがふさぎこんだ経験はないだろうか。質的研究が科学であるか否かという議論は,未だに決着していない課題である。そしてこれらの課題に取り組む際には,一つに科学という枠組みをどのように見立てるのか,二つに科学という枠組みにこだわるのか否かという二つの検討の方向性がとり得る。心理学あるいは質的研究は科学であるのか,仮に科学であると考える場合,その時に想定する科学という枠組みはどのようなものであるのだろうか。また,科学という枠組みにこだわらない場合,心理学あるいは質的研究はどのような知的生産の学問でありうるのだろうか。」 〔2007年3月3日の名古屋大学での研究会「心理学における質的研究と科学:その包摂と境界」の企画主旨冒頭 <http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/month?id=17107&pg=200702>〕 

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「ホメオパシー  - Wikipedia」 <http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%A1%E3%82%AA%E3%83%91%E3%82%B7%E3%83%BC> 〔「ホリスティック医療に分類される、代替医療の一種」としながらも、科学的根拠の欠落、疑似科学との指摘を記述している。「レメディーは、基本的に体にとっての毒物を非常に少量含む。この毒物に対する体の抵抗を意図的に起こすことにより、自己治癒力を含む生命力を高め、肉体的、心理的、精神的な方向が本来あるべき方向へ修正されると言われる。これを「微量の法則」と呼ぶ。しかし、錠剤中、または水溶液中に、1分子たりとも有効成分であるとされる毒物が含まれないほど希釈されていることが多々あり、この点がホメオパシーが疑似科学または偽科学であるとする論のひとつの根拠となっている。」〕 

"Homeopathy - Wikipedia" <http://en.wikipedia.org/wiki/Homeopathy> 〔日本語版とはちょっとちがう。上の日本語の「肉体的、心理的、精神的」はどこから来た表現なのか、気になります。仮に英語にすれば、physical (bodily), psychological, spiritual なのでしょうか。〕

「フランツ・アントン・メスメル - Wikipedia」 <http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%82%B9%E3%83%A1%E3%83%AB>

"Franz Anton Mesmer - Wikipedia" <http://en.wikipedia.org/wiki/Franz_Mesmer

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January 1-2 ゴシック小説と合理主義(その1)――擬似科学をめぐって(5)  On Pseudosciences (5) [短期集中 擬似科学 Pseudoscience]

January 01, 2009 (Thursday)
January 02, 2009 (Friday)

   「December 30-31 擬似科学と科学についての覚え書――擬似科学をめぐって(4)  On Pseudosciences (4)」のつづきで、歴史的な文脈をもうちょっと考えておきたいと思います。むかし書いたものから引っ張ってきたり、自己剽窃も辞さずに覚え書的に書きます。

  前回最後のところで、つぎのように書きました。――

  ここのところが(たぶん)ややこしいのですけれど、ひとつに(もはや迷信的とも思われかねない)宗教的世界観があり、もうひとつに科学的な世界観がありそうなものですが、ふたつの対立は、さらに科学的と見える世界観のなかで対立を起こして、いっぽうは擬似科学とされてしまう。
  だから、また風呂敷を広げると、キリスト教の神中心の世界から人間中心の世界へと移行していく近代の流れ(いわゆる世俗化 secularization)の中で、世俗の人たちはあっさりと神や霊を棄てたわけではない、というようなことが問題になるんだろうと思われます。

  さて、自分の専門の文学でいうと18世紀後半からのゴシシズム(ゴシック・ロマンス)から世紀をまたいでのロマン主義、そして19世紀のリアリズムという流れと科学・擬似科学問題がどういうふうに関わるか、というのは、まあ、自分のもともとの関心の核に近いことではありますけれど、あまりに大きすぎる主題で、それを論じようとしても自分には無理ですし、頭が爆発しかねませんので、断片的なつっこみと、透視的な見取り図だけを目指して書いていこうとあらためて思っています。で、見取り図の続きというようなことになります。

  17世紀の科学革命なるものの延長で、18世紀に合理主義がかつて超自然と考えられてきた事柄に対して行なった説明は、そういう事象・現象を人間の心、さらには体の問題に還元することによって行なわれました。18世紀末から19世紀前半にかけて、生理学や心理学や医学などの立場から、古い「迷妄」「迷信」に対する科学的な説明がなされるようになります。幽霊は錯視、光と影の光学的幻覚、熱病や薬物による譜妄とされます。哲学ではスコットランド常識哲学が認識の誤謬を説きました。また、夢における霊的啓示はロマン派の常套的なモチーフですが、その陰画である悪夢については、霊介在説は退けられ、身体の異常、睡眠時の姿勢、あるいは胃酸過多によるなどとされました。かつては悪夢を見させる霊は、狂気を起こさせる霊と同一ないし同種の霊と考えられていたのでした。つまり、「霊」の存在が前提化されていた事象の原因が人間内部にあると説明されるようになったわけです。このような時期にイギリスで興ったゴシック・ロマンスは、中世的な(霊を当然視する)意識と近代的な(霊を疑問視する)意識を混交させた文学形態でした。

  しかし、悪魔や悪霊がいなくなったら(大多数の人にとっては)ハッピーなことかもしれませんが、一悪魔と一緒に天使もいなくなり、さらには、これがいちばん深刻なことでしょうが、神さえも迷信視されてしまったらどうなるか。人間は教会制度から自由になったけれど、人間存在の基盤が、人間のみならず世界の存在の理由と根拠が、なくなってしまいかねません。もうちょっと俗っぽく考えてみると、悪魔や悪霊がいなくなるというのは、それまでは悪の原因としていたものが人間内部にすべて帰せられるということです。そうなると、たとえば犯罪の責任は、犯罪者その人か、あるいは
  だとすると、ゴシック小説の恐怖というのは、捨ててしまったはずの悪魔と悪霊たちの恐怖であると同時に、悪魔と悪霊たちを棄ててしまうことの恐怖を内包しているのかもしれません。さらにややこしいのは、神中心の世界観が崩壊して人間中心主義へ移行するとして、ルネサンス以来の人間中心主義(ヒューマニズム)は、キリスト教との接点を折々にさぐりながらも(たとえばクリスチャン・カバラとか、錬金術における救済思想とか)、異端的な人間中心主義――端的に言って、人間の霊性、神性を探究する姿勢――をもっていたということがあります。そういう、現代の科学的合理主義の目で見れば、前近代的な思想が、近代的自我の揺らぎの時代に一部の人によって復興されたからといって不思議ではないし、実際それがロマン主義の一部において起こったことだった、と自分は考えています。

      ★ ☆ ☆ ★

  で、preromanticism (前ロマン主義)とか呼ばれたりもするゴシック。この(前ロマン主義という)呼称は前ラファエロ主義のような知名度はないし、というか、単純にゴシックとして名が通っているわけですが、ラファエロの前にと類推的にロマン主義以前に回帰するというような意味合いはまったくなく、むしろ積極的にロマン主義への道を開いたけれど、ロマン主義にはなりえていない半端もん、というような感じがなくはない(たぶん)。要するに過渡的な反動主義みたいな位置づけ。ちょっと暴発しちゃったみたいな(とくに暴力とセックスにおいて、仮にそれが隠微であるにせよ)。だけど、思うに、そのアラワな反合理主義によって(つうか、ありていにいえば、テラー、ホラーという恐怖をつくりだす姿勢によって)、現代の大衆的嗜好へ(詩学とか小説理論とかこむつかしいことをいわんでいいぶん)直結しているのがゴシックかもしれず。

  しかし、誰もがいうように、特に現代というのでなく、イギリスの方で表向きの流行が終わった1820年以降にもアメリカではずっと作家ならびに読者を捉えるものとしてゴシック文学はあり、そのへんがアメリカならびにアメリカ文学の特殊性とどうかかわるかという問題がかねて論じられておるわけです。

  以下、ちょっと自己剽窃的に。

  18世紀後半から19世紀前半にかけての汎欧米的なゴシック文学の流行はおそらく次のように説明され(う)るだろう。①ゴシックは反合理主義の表明である。②ゴシックは近代人の孤独と恐怖の表現である。③ゴシックは中世の宗教的態度を少なくとも廃嘘として、幻として持っている。④ゴシックは美学や神秘主義を盛る器として作家に利用される。
   ①ゴシック・ロマンスがイギリスで興った18世紀後半は、啓蒙主義の時代であり、産業革命が開始される時代であり、合理的で世俗的な思考を偏重した時代精神に対する反動作用として流行は説明される。嚆矢とされる『オトラントの城』(1764)を書いたウォルポール自身は、④と関わるかたちではあるが、文学の状況として、「今日、ロマンスからさえも奇跡、ヴィジョン、妖術、夢、その他の超自然的事件が放逐されている」事態に反抗するかたちで、超自然的な出来事を当然視する中世的な世界観とそれらを疑問視・迷信視する近代的な世界観を融合させるべく二種類のロマンスの融合を試みた(再版序文)。すなわち、ここでいう合理主義とは、現実におけると、文学におけると双方を含む。
  ②啓蒙思想と産業革命は人々に都市型の生活を促し、都市の生活は田舎の生活にも影響を及ぼし、伝統的な共同体的宗教観と社会観を崩壊させ、それによって人々は個人主義的な孤独にさらされることになったと考えられる。ケネス・クラークは、キリスト教信仰の衰退がイギリスで最初に起こり、知的真空状態を埋めるために「自然崇拝」が呼び込まれた、といささか図式的に記述しているが(「芸術と文明」)、キリスト教の衰退、自然崇拝、ゴシック・ロマンス、産業革命が、いずれもイギリスでいちはやく同時代的な連鎖のごとくに興っていることは偶然ではない。「暗いロマン主義」とも呼ばれるゴシックは、人間性の恐怖(人がどれだけ堕落し残酷になりうるか)、他者性の恐怖(見知らぬ人間、あるいは自らの内なる他者がいかに秘密や陰謀をはらんでいるか)、死の恐怖(とりわけ宗教によって死後の生を保証・保障されず、救済を与えられないときの)など、さまざまな、近代の孤独な個人主義的人間の「恐怖」を「動力engine」(ウォルポール)として開花したと考えられる。倫理と審美を乖離させたエドマンド・バークのサブライムの美学が、イギリスで定式化されてゴシック小説の美学的バックボーンになったこと、その新しい美が何よりも恐怖を源泉としていたこと(「苦痛と危険の観念を刺激するにふさわしいものは何であれ、つまり、ともかく、恐ろしいもの、恐ろしい対象と関係するもの、ある点で恐怖に類するものは何であれ、ザ・サブライムの源泉である」)は、上述の思想史的カタログと当然連繋している。
 たとえば、ポーの作品について、詩人のW・H・オーデンは次のように分類するが、「孤独」「自我」が鍵になっている(もっともどちらかといえば、ロマン主義の文脈の中で捉えられているのだろうが)――「ポーの主要作品は大まかに二つのグループに分類できる。その一つは、意志する人間の存在様式にかかわるもので、孤独な自我が他の自我と合一をはかる破壊的情熱を扱うもの(「ライジーア」)、純粋理性によって、見せかけや情緒が隠蔽する真の関係を発見するために客観的であろうとする意識的自我の情熱を扱うもの(短篇「盗まれた手紙」)、自我と自己とがはげしく敵対する自己破壊的情熱を扱うもの(「あまのじゃく」)、また怪物的情熱、つまりあらゆる情熱に欠ける人間の情熱的な不安を扱うもの(「群集の人」)などである。……第二のグループは「大渦の底へ」や『ゴードン・ピム』などを含むが、ここでは意志と環境との関係は逆転する。……そこで起こるすべては主人公の個人的選択の結果ではない。すべてが彼に対して起こる.主人公が感じること――興味、興奮、恐怖――は、彼には自由にならない出来事によって惹起されるのである。」(オーデン編のRinehart 版ポー作品集の序文)。 要するに、ゴシック的な恐怖は、世界に対する心理的な秩序の崩壊を反映していたのではないかということだ。(しかし、先走って言えば、個人主義の行方は三つ考えられるだろう。第一に個人主義は恐怖ではなくて自由としての濃度を増して肯定的に捉えるようになっていき、ゴシック小説は文字通りに娯楽となって文学的流行としては衰える運命になったlこの事態はサブライムの美学に即して言うなら、「苦痛と危険の観念を抱きながら、実際には危険な状況にないとき、その感覚はよろこばしい」(バーク)という、恐怖の危険なき享受の面でのみサブライムを捉える立場だ。第二に再び反動的に宗教的なものが求められ、より世俗化された信仰による支えを与えられたうえで社会における個人の自由が求められた。第三にロマン主義的ないしオカルト的な「自己信頼」が主張された。(一方、アメリカ的な「恐怖」の事態としては、異人種に対する恐怖・不安が、「近代化」の裏側にあった迫害と搾取の裏側に貼りついていたというべきか。)
 ③ゴシックとは、十八世紀中頃、中世趣味の流行の中で建築・美術の意味合いが強かったのを、ウォルポールが文学に適用した(中世の城や寺院を舞台にした幻想的・超自然的事件の効果に移行させた)ものであった。ゴシック小説における建物はしばしば人間(精神)の比楡となっている。建築とは世界観の表われであるとともに、人間観の表明である。文化人類学的に言えば、家はもともと小宇宙であり、かつ同時に、天・地・地下をつなぐ世界軸であった。ゴシック建築を否定してでてきたルネサンス建築が、ヒューマニズムの表現として、横に伸びる水平性を強調するものだったのに対して、ゴシックは垂直性の意識がきわめて強い様式だった。たとえばシャルトルの大聖堂のようなゴシック建築は、下から上昇する方向性、上方への衝動とともに、上から下への働きかけが、つまり、光への憧れと、この下からの人間的努力に対する上からの働きかけがダイナミックに統一された、光と闇の舞台となっている。ゴシック・ロマンスがイギリスでおこったとき、建築のゴシックとはイングランドの地方に見られる古い建物全般に対して与えられていた名称で、結局ゴシック・ロマンスとは、それがいわば構造的になぞった建築のほうも、ロマンスのほうも、中世のまがいものだった。この形式が人間観、世界観を表現しているとするなら、つまりは一個の小宇宙として、あるいは(ミルチャ・エリァーデが言うような意味で)「宗教的人間」として、自らを定立できない近代人の、懐疑、憧れ、恐怖、不安といったものが(あるいはときに反動的な悪魔主義とかも)、しばしば建物Ⅱ人間の比愉をともなってゴシック小説にあらわれてくるのは当然である。なるほどゴシック小説は「恐怖小説」なのかもしれないけれど、恐怖をサブライムの源泉としたパークが、美学的には、サブライムが持っていた「魂の上昇」という宗教的意味合いを捨ててしまったとはいえ、甦ってくる。これは倫理と審美の乖離を引き起こしたはずのサプライムの美学に裏打ちされたゴシックが、悪の問題を通して垂直方向のモラル・コンサーンを内包するのと同じである。
 ④ウォルポールは新旧二種類のロマンスの融合を試みたが、その二種の内容とは、図式的に言えば「超自然」と「自然」、スーパーナチュラリズムとリアリズムであった。つまり、幽霊や魔術や超自然(「幻想 fantastic」を論じたツヴェタン・トドロフと、と言うか、フランス文学の「メルヴェイュー」と、見事に合致するかたちでウォルポールは「驚異的 marvelous と呼ぶ)を当然視する中世的な世界観・芸術観と、霊や超常的な現象を迷信として否定する(さらには神をも否定するだろう)近代人の観念との衝突を意図していた。キリスト教倫理(善)に一致した美を二次的ないし相対的なものとするサブライムの美学が前景化したときに、あるいは大手を振るって「恐怖」が求められたときに、超自然(と見えるもの)が有用であったのは当然であった。そうして、美学に裏打ちされて物語を構築するところから、逆転して「美」の顕現のために物語を構築する立場は、とりわけリアリズム以前の「芸術家」にとっては、自然なことであっただろう(美や芸術家という前提を含んでいるのだけれど)。あるいはパーク以来の倫理と審美の乖離の流れに逆らって宗教的なものを美にあらためて結びつける反バーク、反(擬人主義的)ピクチャレスクな態度はアメリカに著しく特徴的だった(詩人画家ワシントン・アルストン Washington Allston が典型)。
  あるいは、より散文に適した事態としては、超自然的、超越的な事柄、あるいは宗教的・擬似宗教的・神秘主義的・神秘学的テーマを扱うのにゴシックというジャンルは適していた。

  (まったくだれが読むのかわかりませんがつづきます)

  


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January 2-3 ゴシック小説と合理主義(その2)――擬似科学をめぐって(6)  On Pseudosciences (6) [短期集中 擬似科学 Pseudoscience]

January 02, 2009 (Friday)
January 03, 2009 (Saturday)

  (「January 1-2 ゴシック小説と合理主義(その1)――擬似科学をめぐって(5)  On Pseudosciences (5)」のつづきです)

Ringe,AmericanGothic(1982).jpg

   かつては添え物的にゴシック小説史に添えられていたアメリカ文学におけるゴシックの伝統をはじめて通史的に論じたデイヴィッド・リンジ David Ringe の『アメリカのゴシック――19世紀小説における想像力と理性』 American Gothic: Imagination and Reason in Nineteenth-Century Fiction (University of Kentucky Press, 1982) 〔邦訳 小宮照夫ほか、松柏社、2005年〕は、総論のあと18世紀末におけるゴシック(というのは「アメリカ文学の父」チャールズ・ブロックデン・ブラウンが一連のゴシック小説を書いたときの文学状況を示しているのですが)を、合理と非合理の二種に大別し(それぞれをさらに二分して代表的な作家を指摘し)ましたが、彼の文章を勝手に図式化すればこうなると思います。

rational&irrationalGothic_.jpg

  該当する作家名にあがっているのは、18世紀イギリスのアン・ラドクリフ、ホレス・ウォルポール、クララ・リーヴ、マシュー・ルイスといった代表的作家と、あと "rational" つまり、超自然と思われたことが合理的に説明して解決するタイプのふたつめに「ドイツ作家たち」という、英国をはずれた一団があがっています。その「社会的」というのは端的には秘密結社のような、人々に不安と恐怖を与える存在が外在化しているものを取り入れることを指します。これはイギリスで生まれたゴシックが大陸に渡り、折からの秘密結社的な革命思想の流行のなかでドイツを中心に書かれたゴシックの特徴だとリンジは言います。ブラウンの『ウィーランド』はこの四つにまたがって話が展開し、しかし最終章(=外枠)では心理的で合理的な解釈に収斂していると考えられるでしょう。

  一般的なゴシックの区分は説明型(the explained gothic)と 超自然型(the supernatural gothic)であり、それぞれ上の二区分に対応すると考えられますが、G・R・トンプソン G. R. Thompson が論文「ワシントン・アーヴィングとアメリカのゴースト・ストーリー」(ハワード・カー他編『憑かれた塵――アメリカの超自然小説、1820―1920』 Howard Kerr et al., ed, The Haunted Dusk: American Supernatural Fiction, 1820-1920 (1983)所収)でイギリスに先行してアメリカに特徴的なスタイルとして強調したように、中間に暖味型(the ambiguous)という少数派があります。そしてこれはトドロフのいう「幻想」に重なるところがある。トドロフの概念とあわせて図式化すればこうなるでしょう。

  the explained gothic 〔説明型〕――the uncanny 〔怪奇〕

  the ambiguous gothic 〔曖昧型〕――――the fantastic 〔幻想〕

  the supernatural gothic 〔超自然型〕――――the marvelous 〔驚異〕

  

  まあ、幻想をあいだに入れたところで、少なくとも数の上では説明型=合理派の優位は変わらず、大衆小説のジャンルとして今日にまで至るゴシックの中心的流れを作ったのは、幽霊現象について懐疑的だったイギリスのアン・ラドクリフで、作中超自然的と思われた事象・神秘・謎は最後に日常的な説明によってヴェールを剥がれます。この偽の超自然主義は、pseudo- という言葉は使わないで(w) 「まがい超自然主義 mock supernaturalism」という呼ばれ方をするようですが、推理小説も含めミステリー属の文学ジャンルの多数派の態度となっています。アメリカのゴシックについての通説は、ひとことで言えば、“psychological"な深み、つまり(罪や恐怖をめぐる)心理的洞察の深さというものです。推理小説についてちょっとだけ書いておくと、ゴシックと推理小説の関連というのはかねてあれこれ言われることですが、ゴシックが持っていた神秘主義の底流みたいな要素を捨てることで出てくるので、後期にならないと出てこないのではないかと思われ(まあ、detective fiction 探偵小説という英語にこだわって、detective が存在しなければ、つまり警察組織が存在しなければ、探偵小説は存在しないのであり、1830年代になって探偵小説はおこるのだ、というようなハワード・ヘイクラフトのようなミモフタもない、というか問答無用の理屈もありえますが)。

  ラブキンの『幻想と文学』を援用してジャンル分岐という問題からゴシックをもう少し考察しておくと、第一に、科学的な合理化ゴシックが1818年の『フランケンシュタイン』に始まり、アメリカではホーソーンの描くエイルマーやラパッチーニなどのマッド・サイエンティストを経て現代のSFに続いていく。科学を肯定しない『フランケンシュタイン』がSFかどうかというのが問題なのではなくて、ラブキンが言うように超自然に科学を注入する幻想的逆転そのもののために超自然が科学と絶縁することが回避されるのである、ということになります(ちょっと理屈がむつかしいかも)。第二に、(ラブキンによれば)同じ1818年にジェーン・オーステインが『ノーサンガー・アビー』によって諷刺化ゴシックという支流ジャンルを生んだ、ということです(Eric S. Rabkin,The Fantastic in Literature (Princeton UP,1976)[若島正訳『幻想と文学』東京創元社、1989年]、第5章「幻想と文学史」を参照)。ゴシックの美学背景から言えば、恐怖に関わるものを源泉とするエドマンド・パークのサブライムの美学から、遊び、異質なものの混交などを特徴とするピクチヤレスクの美学への重点の移行があったわけだが、暖昧なゴシックはピクチャレスクな遊びと関わっている。ポーやホーソーンやメルヴィルたちの先輩作家にあたるアーヴィングもブラウンもピクチャレスク趣味があったひとです。

  一方でブラウン的な心理的洞察を特徴とするマジメなゴシックを受け継ぎ、もう一方でアーヴィングのような遊びを含んだ「語り」のゴシックの伝統を受け継いだポーは、さまざまな振幅のゴシックを書きました。だが、ひとつの問題はこのような分類がトドロフのような構造主義的分析には適合するものの、テクストの表層しか扱い得ないのではないかという疑問です。プレンティス・ホール社の20世紀批評論集の一冊に「オカルトの文学」を編んだピーター・メッセントは、序論でオカルト小説をゴシックの伝統につなげるとともに、トドロフの幻想理論になぞらえて論じました。簡単に言えば、日常世界に合理的説明が不能な(超自然的な)事物・事態が侵入してきたときのショック、スリルをメッセントはオカルト文学の本質と考える。ポーの「アッシャー家の没落」についてトドロフは(その後のG・R・トンプソンと同様)「怪奇」に分類し、メッセントは「幻想」の要素もあるように記述するという相違はあるものの、作品テキストに解読される「錬金術」は問題にされない。つまり、オカルトを単に超自然と同一視することは狭い理解しか認めないでしょう。

  「アッシャー」という有名な作品については、平石貴樹のサラシナ・ニッキものの推理小説『誰もがポオを愛していた』の巻末にS・W(S. W. だったかしら)による合理的解釈が載っていますが、それはポーの推理小説には属さない(といったって当時推理小説なるジャンルは未成立だったと思うのですが、それでもポーがデュパンもので、超自然などない、という態度を再三示しているのは確かです)この短篇を、医師の犯罪、それから爆発は地下の火薬庫への引火、というような「合理」で説明しようとしたパスティーシュだったと記憶しています。トンプソンも、このふつうは超自然小説と考えられているアッシャーに対して、合理的・心理的な解釈を優位に立てます。語り手の信頼性をめぐる議論となっているのですが、別の研究者のパトリック・クインとのあいだで異議申し立て、反論、再反論を繰り広げました。(*)  トンプソンは、 "nor was there any flashing forth of the lightning" (マボット版全集2巻412ページ)という語り手の言明をパトリック・クインが指摘したのにもめげず、同じ語り手の言う「電気的現象」 (413) を根拠にして、鉄と銅という通電性の高い金属の強調は、館を囲む雷雲から、かつて「火薬あるいは可燃性の高い (highly conbustible) 物質の貯蔵所」(410) だった地下室に電気が流れて爆発を起こすことの暗示だと主張します("Poe and the Paradox of Terror," 334-36)。
(*) Patrick F. Quinn, "A Misreading of Poe's 'The Fall of the House of Usher'"; G. R. Thompson, "Poe and the Paradox of Terror: Structures of Heightened Consciousness in 'The Fall of the House of Usher'"; Quinn, "'Usher' Again: Trust the Teller!" in G. R. Thompson and Virgil L. Lokke, eds., Ruined Eden of the Present: Hawthorne, Melville and Poe (1981), 303-12; 313-40; 341-53.    

  あれこれこういうことって、 ゴシックが中世ではなくて近代の産物であり、基本には合理主義があること(というより、そのように、つまり合理主義があるはずだと想定されていること)、そして、文学においてさえ、読者は合理主義的世界観を、それもたぶん自らの合理主義的(なり非合理的w)世界観を投影して読書行為を行ないがちであることを思わせるのでした。

  文学においてさえ、と書いたのは、第一に、ぶっちゃけ、文学はウソこいてもいいし、第二に、そもそも反現実的なものを文学は原理的にはらんでいるのだし、第三に、逆に文学作品に書かれたことが現実だと考える方がアブナイと思うからですが、科学の力はここまで及んでいるか、という感じです。

  むろん、ゴシック全盛期の19世紀においてさえ、ドナルド・リンジの研究書の副題が示唆するように、奔放な想像力が理性によって抑えられるという構図は、作家の想像力というだけでなくて、登場人物の想像力が、歪んだものであって理性で正されるとか、いうかたちであって、それはそのまま合理主義的世界観とつながっておるわけでしょうけど。

  上述の論文集『憑かれた塵――アメリカの超自然小説,1820~1920年』(1983)の編者のひとりがトンプソンなのですが、編者たちは、序文で、スピリチュアリズムと心霊現象から力動心理学を経て精神分析に至る歴史的道筋が、ワシントン・アーヴィングに始まる超自然の物語から"psychologism"を経て「精神分析的ロマンス」(フロイトが自らのレオナルド研究を指して用いた言葉)へと至る文学の変質と重なるものと見、その結果、無意識の「象徴」として用いられてきたオカルトは必要性を失ない、幽霊物語は「非物質化=非実体化」したと結論しています。

  この歴史的パースペクティヴは、ツヴェタン・トドロフがかつて1920年代以降の精神分析と超自然小説のサイコ・セクシャルな主題との関連を語った言葉と同じ考えです。――

今日、過度の性的欲望を語るのに悪魔に頼る必要はないし,死体によって引き起こされる魅力を言うのにヴァンパイアの助けを借りる必要はない。精神分析と、精神分析によって直接間接に霊感を得た文学は、こうした事柄を隠蔽しない言語で扱う。ファンタジー文学の主題は、文字どおり、過去50年の心理学的探求の主題そのものとなった。 〔Tzvetan Todorov, The Fantastic: A Structural Approach to Literary Genre, trans. Richard Howard (Ithaca: Cornell UP, 1975), 160-61〕

  だけど、ほんとに過去のものなのかな。精神分析も擬似科学化されたいま、もういっかい考えてみてもいいかなあと。

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「気分はLIGHT BLUE 読書雑記倉庫 は」 <http://kibunlb.fc2web.com/bookreview06.html#hiraishitakaki> 〔『誰もがポオを愛していた』などの読書記録〕

Dugald Stewart, Elements of the Philosophy of the Human Mind (1802) <http://www.archive.org/details/elementsphiloso01stewgoog> 〔"Scottish School of Common Sense" を広め、アメリカでもよく読まれた Dugald Stewart の著作のオックスフォード大学所蔵本のe-text〕

 


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January 3-4 ホメオパシーとスウェデンボルグ主義 (上)――擬似科学をめぐって(7)  On Pseudosciences (7) [短期集中 擬似科学 Pseudoscience]

January 03, 2009 (Saturday)
January 04, 2009 (Sunday)

   日本語で同種療法、同毒療法などと訳されるホメオパシーについては、つい先走って「December 30-31 擬似科学と科学についての覚え書――擬似科学をめぐって(4)  On Pseudosciences (4)」で触れました。ウィキペディアの日本語もくわしげだし、医学だし、それだけですまそうかな、という思いもあったのでした。しかし、ウィキペディアの書いていないことをちょっと補っておくのもよいかな、と思いなおしました。それにしても、ホメオパシーで検索をかけると、冒頭に宣伝が載るのですね、ちょっとビビりました。つまり、いまの時代のバリバリの擬似科学であるということですね。日本語ウィキペディアの外部リンクに挙がっている「ホメオパシー - Skeptic's Wiki」というページは日英のウィキペディアへのリンクもついているし、批判的(懐疑的)で詳しいので代表して――<http://sp-file.qee.jp/cgi-bin/wiki/wiki.cgi?page=%A5%DB%A5%E1%A5%AA%A5%D1%A5%B7%A1%BC> 。それから、ホメオパシーをそのリストに加えている、ウィキペディアの「スピリチュアル・ヒーリング」も参照。

  ちょっと文学について書いたので、気が楽になったような気がします。自分の関心は現代(の現実)ではなくて歴史にあります。 

  アメリカではプトレマイオスの宇宙像がたとえばイェール大学では1717年まで教えられていました。占星術はハーヴァード大学のカリキュラムの一部として1731年まで教えられていました。植民地時代に放血 (bleeding) という医術を行なっていた外科医たちは、しばしば占星術に従って術の時間を設定したそうです。聖書についで広く用いられ売られたオールマナック(「年鑑」というような意味ですが、むしろ暦)には占星術的な記述のほかに、民間治療法、薬草の処方などが書かれていました。

  18世紀になるとヨーロッパから啓蒙思想がどっと入ってきますけれど、アメリカの民衆のあいだでは健康問題はできるかぎりは自分たちでなおす、というような考え方が強かったようです。それをあらわすものとして、18、19世紀当時の民間治療についての本があげられます。ウィリアム・バカン William Buchan の『家庭の医学 Domestic Medicine』 はスコットランドのエジンバラで初版が1769年に出た本ですが、アメリカでも広く利用されました。1816年に、ニューヘイヴンで再版がでたとき、タイトルは『誰もが自分の医者 Every Man His Own Doctor』というのでした。1826年には Anthony Benezet という、ペンシルヴェニア大学を出た医学者が、「とくに西部にすむ人のために考えられた」という『家庭の医者〔かかりつけの医者みたいな感じなのでしょうか〕 The Family Physician』を出版します。他にも『家庭向けアメリカの医学手引き The American Medical Guide for the Use of Families』 (1810) とか『アメリカの家庭の医者 The American Family Physician』 (1824) とか出ていたのですが、ベネットのあとにJ. C Gunn が書いた『家庭の医学――貧者の友 Domestic Medicine: Or Poor Man's Friend』 (1830) はさらによく読まれ、1870年までに100版を重ねることになります。1869年に出たGeorge Miller Beard による『われらが家庭の医者 Our Family Physician [The New Cyclopedia of Family Medicine: The Good Samaritan]』は、解剖学や生理学の基本について、簡単な外科手術について、一般的な疾病について、そして薬草の処方について記述があり、透視や占星術師や手相占いなどのウソは指摘していますが、ホメオパシーについては詳しいマニュアルをおさめているそうです〔Herbert Leventhal, In the Shadow of the Enlightenment: Occultism and Renaissance Science in Eighteenth-Century America (New York: New York University Press, 1976; C. B. Risse et al. ed., Medicine Without Doctors: Home Health Care in American History (New York: Science/History Publications, 1977); Eugene Taylor, Shadow Culture: Psychology and Spirituality in America (Washington, D.C.: Counterpoint, 1999 など参照〕

  で、こういうself-help の流れの中で、さまざまないわゆる代替治療が19世紀前半のアメリカで出てきます。なんのオルタナティヴだったかというと、当時の伝統的な医術に対するものでしたが、精神的な病気については、治療というよりも拘束や幽閉が一般的だった時代です。そしてまた、産業主義が一般化して、かつての農本主義がくずれ、不安定な社会と社会の不安が生じていった時代でした。こういう時代を背景として "mental healing movement" とか "mind-cure movement" とまとめて呼ばれるようなかたちで、いろいろな社会改良運動や(擬似)科学や(擬似)宗教運動がたかまったのが1830年代、40年代でした。

  19世紀アメリカのふたつの大衆的な医療法(いまふうにいうと代替医療ですか)として、サミュエル・トムソン Samuel Thomson, 1769-1843 のThom(p)sonianism と、シルヴェスター・グレアム Sylvester Graham, 1794-1851 の Grahamism があります。Thom(p)sonian System とかThom(p)son medicine とも呼ばれる前者の治療は、ハーブ(薬草)を使用するいわゆる自然療法で、当時欧米の主流の医者たちが水銀とか阿片とかアンチモンとか毒性の強い(しかも高価な)薬を使い、あるいは血をドバドバ抜くみたいな治療をしていたのに対して、体にやさしい(といっても嘔吐を催させたりとか、いろいろな効能のハーブを使うわけですけど)、比較的安価な(パテントを取って、各家庭に20ドルの使用料を求め、さらに薬草を買う人は買うわけですけど)治療として人気を博しました。1840年までに10万パテント売ったとされています。えーと、1820年のアメリカの人口が1000万くらいで、1840年は1700万くらいかしら。1840年の時点で最大の都市はニューヨークで人口30万人。2位以下5位までのボルティモア、ニューオーリンズ、フィラデルフィア、ボストンは10万とか9万でした(書きながら統計学的にこころもとないw いちおう「アメリカの領土と人口」(『アメリカ大陸地理情報館』)参照)。

Thomson'sPatent(1845).jpg
Thomson's Patent  トムソンの専売特許証

  グレアムのほうは、代替医療というより、むしろ医療を極力排して、清潔な空気、運動、純粋な食物といった考えを推し進めた人で、全粒小麦粉 (whole wheat flour)が一番で合成添加物を入れるのはもってのほか、と白いパンが田舎以外では主流になってきていた時代に黒パンの健康性を主張したり、菜食主義とか禁酒運動とか食餌法とか唱えます。イギリスに続く1850年のアメリカ菜食主義協会 American Vegetarian Society の設立に力あったのですが、翌年亡くなってしまいます。全粒粉の唱道によって Graham breadGraham crackerGraham flour と名前を残しています。あとケロッグはグレアムを思想的に継いでコーンフレークをつくったのでした。(バークレーというかカリフォルニアを起点に流行ったオーガニックなんたらとかもグレアムにつながるものがあります。)

  グレアムは長老派の牧師でしたが、主著は『ヒューマンライフの科学についての講義 Lectures on the Science of Human Life』(Boston, 1839) だと考えられます。サミュエル・トムソンも医者ではありませんでした。1835年に『健康への新たな手引き――植物がかかりつけの医者に〔みたいな感じなのでしょうか〕 著者の半生と医学的発見についての物語を付す New Guide to Health; or Botanic Family Physician to Which Is Prefixed, A Narrative of the Life and Medical Discoveries of the Author』 (Boston, 1835) という本を書いています。

  さて、両者はハーブや全粒小麦粉みたいなかたちでも現在につながっているわけですけれど、ホメオパシーがのちに残したものとして、接種の普及とか、自然治癒力の重視(まあこれを極端に押し通すとクリスチャンサイエンスでときどき起こる事例になってしまいますが)とかあるのではないかと思われます。

  ただ、自分はホメオパシーを擁護しようとして書いているのではまったくないので、現代の問題はおいて、歴史的なところを少し補ってみたいと思います。 

  ホメオパシーが1790年代にドイツの医者で化学者だったサムエル・ハーネマン Samuel Hahnemann, 1755-1843 に唱えられたものだというのは知られたところです。ハーネマンが唱えたのは「類似性の法則」と「無限小の説」というふたつの考えです。類が類をなおす similia similibus curentur (like cures like) という前者がホメオパシーそれ自体の原理です。それを実践する際のレメディーとかいうものについての科学的な説明はウィキペディアの「ホメオパシー」のほうをお読みください。希釈の問題についてだけちょっと補っておくと、どうやらsubtle であるということが霊的なものに近づくというような考えをハーネマンはもっていたように思われます。 "[I]t is only by means of the spiritual influence of a morbid agent that our spiritual, vital power can be diseased, and in like manner, only by the spiritual operation of medicine can health be restored." 〔Samuel Hahnemann, The Organon of Homeopathic Medicine, 3rd ed., with improvements and additions from the last German edition, and Dr. C. Hering's Introduction (New York: William Radde, 1848) as quoted in Taylor, 102〕

   これはハーネマンの著作の英訳ですが、 "spiritual" の意味は、人間精神ではなくて「霊」的という意味のように思われます。思われますが、曖昧なような気も〈少なくとも「精神力」、「気力」くらいの曖昧さはあるような気も)します。「病の媒介の霊的な影響によってのみ、生命力は病むのであり、同様に、医療の霊的はたらきによってのみ健康は回復せられる」 なんだかこれだけだとよくわかりませんね。

  この曖昧さは自己治癒力というような考え方につながりうるような曖昧さです。

  さて、ハーネマンの弟子のハンス・バーチ・グラム Hans Birch Gram, 1786-1840 がアメリカに最初にホメオパシーを伝えたのが1825年ということになっています。グラムという人はデンマーク移民の2世で、ボストン生まれですが、母親の死後コペンハーゲンに渡り、そこで医学を学び、さらにハーネマンのホメオパシーを学びました。アメリカに戻ってニューヨークで開業医となるのですが、帰国後まもなく書簡のかたちでアメリカにおける最初のホメオパシーに関する著作を出します。もっともそれはハーネマンの論文の覚束ない(どうやら読むにたえない、というか理解不能な)翻訳で、 "The Characteristics of Homeopathia" というのでした。けれどもグラムのホメオパシーは少なくとも当初、かたよった、というか際立ったグループを介在して、受容されたようなのです。が、あれこれ読んでみると、二説あって、ひとつはスウェデンボルグ主義者たち、もうひとつはフリーメーソン。

  1844年4月という古くに創設された American Institute of Homeopathy という団体のホームページでは、グラムはフリーメーソンで、はじめの「改宗者」の何人かはフリーメーソンの医者だった、と書かれています。Eugene Taylor などはフリーメーソンには触れず、スウェデンボルグ主義者たちとのかかわりだけ書いています。まあ、両方とも真実だと仮定してもソゴは別にないのですが、ちょっと頭を冷やしてから続けることにします。

karakusa.jpg

 

William E. Kirtsos, "The Beginning of the American Institute of Homeopathy" <http://homeopathyusa.org/home/about-aih/our-heritage---our-future.html> 〔"American Institute of Homeopathy - Our Heritage - Our Future" アメリカ・ホメオパシー協会のページ〕

Wilman Wake, "Homeopathy and Swedenborgians" [DOC] HOMEOPATHY AND SWEDENBORGIANS html. version〔説教のノートのようです〕

"The Life and Letters of Dr Samuel Hahnemann" <http://www.homeoint.org/books4/bradford/bibliography.htm> 〔Homeopathic Bibliography. Philadelphia : Boericke & Tafel, 1892 の抜粋のようだが、ハーネマンの詳しい著作年譜

 ☆

 


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January 5-6 ホメオパシーとスウェデンボルグ主義 (下)――擬似科学をめぐって(8)  On Pseudosciences (8) [短期集中 擬似科学 Pseudoscience]

January 05, 2009 (Monday)
January 06, 2009 (Tuesday)

  「January 3-4 ホメオパシーとスウェデンボルグ主義 (上)――擬似科学をめぐって(7)  On Pseudosciences (7)」のつづきです。

    ボストン生まれのデンマーク系移民のハンス・バーチ・グラム Hans Birch Gram は、母の死後渡欧して大学で医学を学び、さらにハーネマンにホメオパシーを学んで、1825年にアメリカにもどり、ニューヨークで開業医となりました。ハーネマンの論文を英語に訳してパンフレットを出版したグラムのまわりに最初集まったのはスウェデンボルグ主義者たちで、その後もアメリカにおいては、ホメオパシーとスウェデンボルグの思想が手を携えて広まったというのは事実のようです。ホメオパシーを教える医学校がフィラデルフィア、シンシナティ、ボストンなどに出来ますが、スウェデンボルグ思想に共鳴する人々が通いました。東部のホメオパシーの薬剤師(薬局)として大手であった、フィラデルフィアのBoericke & Tafel とボストンの Otis Clapp は、どちらもスウェデンボルグの著作のアメリカでの出版社でもありました("F. E. Boericke and His Machine" <http://julianwinston.com/archives/bt/boericke_potentizer.php> 、"Otis Clapp 1820 - 1886" <http://homeopathy.wildfalcon.com/archives/2008/03/21/otis-clapp-and-homeopathy/> 参照)。あるいは、のちの話ですが、フィラデルフィアのハーネマン・メディカル・カレッジにはスウェデンボルグ主義者が多く関与し、教師のなかでは Constantine Hering とCharles Raue がホメオパシー治療の背景にある "psychology" を講義したということです。このへんの名前が一緒に出てくるWEB 上の論文を引いておきます。――

The two outstanding American homeopaths, the "father" of American homeopathy, Dr. Constantine Hering (1800-1880) and the virtual founder of the pure (classical) Hahnemannian homeopathy of the 20th century, Dr. James Tyler Kent (1849-1916), were members of the New Church. Other distinguished homeopaths like Dr. Hans Burch Gram (1787-1840) as well as the world-wide known homeopathic publishers Boericke (1826-1901) and Adolph Tafel (who had started with publishing Swedenborg’s works and on suggestion of Constantine Hering began later also to publish homeopathic literature), Dr. John Ellis of Michigan and Dr. Otis Clapp of New England were all followers of Swedenborg.  J.-T. Kent himself stressed that "All my teaching is based on the doctrines of Hahnemann and Swedenborg. These doctrines are agreed excellently each with the other".  (カリフォルニア時間6日夜追記 訳をつけていくことにします――ふたりの傑出したアメリカのホメオパス(ホメオパシー実践者)は、アメリカのホメオパシーの「父」であったコンスタンティーン・ヘリング博士(1800-80) と、20世紀の純粋(古典的)ハーネマン流ホメオパシーの実質的創始者であったジェームズ・タイラー・ケント博士 (1849-1916) であるが、スウェデンボルグ教会のメンバーであった。他にも、著名なホメオパスとして、ハンス・バーチ・グラム (1787-1840) や、世界的に有名なホメオパシーの出版社のボーリック (1826-1901) とアドルフ・ターフェル(この人はスウェデンボルグの著作の出版からはじめて、コンスタンティーン・ヘリングの助言でのちにホメオパシー関係の文献の出版も始めた)、そしてミシガンのジョン・エリス博士やニューイングランドのオーティス・クラップ博士などは、皆スウェデンボルグの信奉者であった。J・T・ケントも自ら、「私の教えはハーネマンとスウェデンボルグの教義に基づいている。ふたつの教義は互いに見事に合致している」と強調した。

      

     Hans Birch Gram                                             James Tyler Kent
       (1787-1840)                                                       (1849-1916)

  While not attempting here a detailed elucidation of the interactions between the Swedenborgian and Hahnemannian teachings,  I would like to mention that there were influences on homeopathic thinking by Swedenborg’s ideas (like the doctrine on the Infinity, dividing the psyche hierarchically into three separate levels, etc.) but not less influential was Kent’s adoption of these ideas. "Especially Kent had combined both systems and thereby created a distinct school of American homeopathy".

   Constantine Hering, who became the head of the Hahnemannian College in Philadelphia, which he had established in 1848, was also an active member of the New Church in Philadelphia. He often discussed philosophical aspects of Swedenborg’s teaching. 〔Alexander Kotok, "The History of Homeopathy in the Russian Empire until World War I, as compared with other European countries and the USA: similarities and discrepancies" <http://www.homeoint.org/books4/kotok/4430.htm> 〕

   グラムもスウェデンボルグ主義者だったと書かれていますね。20世紀のホメオパシーの基礎を築いたジェームズ・タイラー・ケントも同様と。"New Church" というのはChurch of the New Jerusalem と同じで、スウェデンボルグの死後、彼の思想に共鳴する人々がつくった「教会」なのですが、ここらへんで、スウェデンボルグについて簡単に記します。日本語のウィキペディアには、だいぶ詳しい知識をもったひとによる記事があります――「エマニュエル・スヴェーデンボリ - Wikipedia」/ "Emannuel Swedenborg - Wikipedia" / "Swedenborgian Church [Swdenborgianism] - Wikipedia"

    日本語のウィキペディアは「スヴェーデンボリは当時 ヨーロッパ最大の学者であり、彼が精通した学問は、数学物理学天文学宇宙科学鉱物学化学冶金学解剖学生理学地質学自然史学結晶学などで、結晶学についてはスヴェーデンボリが創始者である。 」と書いています。スウェデンボルグは18世紀の科学者であり、同時に宗教的経験の解釈者でもありました。さまざまな学問に精通するとともに、技術者、発明家でもありました。しかし、彼の主要な関心は魂の探求に科学(学問)を使うというところにあったようです。外的自然についてさまざまな研究をしたあとで、最終的には自分自身の意識を科学的探究の対象としてむかいあうことになります。夢解釈によって自己の内部に接近しようとする。けれどもこれによって一種の宗教的な危機が訪れます。50代なかばでスウェデンボルグがのちに語ったところでは神が彼を訪れて、「ロゴス」の霊的意味を基礎として、聖書の新しい解釈を書くように命じたということです。スウェデンボルグは多数のヴィジョンを見るようになり、霊能力を発揮するようになったらしい。5巻の霊日記や最も有名な『天界と地獄 〔Heaven and Hell が英題だけれどラテン語で出版〕』(London, 1758)には神の使いの天使たちによって見せられた天界と地獄の領域の記述が出てきます。最後の審判のヴィジョンについては、世界規模の霊的意識の変容を意味すると解釈しています。この新しいイェルサレムがどのようなものであるかを主題とする本を何十冊も書きました。

  スウェデンボルグは1772年にロンドンで亡くなりますが、それはルター派のキリスト教会の教えに反するということでスウェーデンを追われて、イギリスに後半生は滞在していたのでした。で、スウェデンボルグ自身は教団なり党派なりをつくるということはしなかったのですが、死後に彼の思想に共鳴するひとびとがつくったのが「新エルサレム教会」(スウェデンボルグ教会)で、それがイギリスから起こったのは、スウェデンボルグがイギリスに没したことと関わっています。イギリスとフランスとアメリカ合衆国が19世紀のスウェデンボルグ教会の中心でしたが、1828年にはアメリカのスウェデンボルグ教会の数は80に達し,イギリスの49を遙かに抜いています〔この数字は昔読んだCharles Webb のThe Occult Underground という研究書からのメモ〕。

  スウェデンボルグは霊界と現世との照応思想 correspondence を展開したことで有名で、この「照応」は、ボードレールをはじめとするフランス象徴主義のひとつのバックボーンみたいなものになっています。が、よくわからないのは、たとえば次のような文章(英訳ですが)におけるsoul と spirit の扱い。――

Since, then, without a perception of what correspondence is there can be no clear knowledge of the spiritual world or its inflow into the natural world, neither of what the spiritual is in its relation to the natural, nor any clear knowledge of the spirit of man, which is called the soul, and its operation into the body, neither of man's state after death, it is necessary to explain what correspondence is and the nature of it.  [Emanuel Swedenborg, Heaven and Hell (New York: Swedenborg Foundation, 1952), p. 50]

(照応がいかなるものであるかを知らねば、霊界についての知識、あるいは霊界の自然界への流入についての知識も明確には得難いのだし、霊的なものが自然的なものといかなる関係を持つのか、また、魂と呼ばれる人間の霊について、また体への働きについての明確な知識も、死後の人間の状態についての知識も得難いのだから、照応とはなんであり、どのような性質のものかについ説明する必要がある。)

  ここで、霊界と自然界の照応を語りつつ、人間的自然(human nature)を構成する体(body) と霊(spirit) ないし魂 (soul) について同時に語っておるわけですが、「魂と呼ばれる人間の霊」と書かれては、文字通り混乱してしまいます。

  うえで、ヘリングがホメオパシーと心理学の関係を講じたということを書いたところで思い出したのですが、ホメオパシーの創始者のハーネマンはドイツで精神病院の運営を一時やったことがあり、そこで病気の心理的な要素についての理解を深めたようなのですね。で、アメリカで言うとと、ボストンの医学校 Boston University School of Medicine はもとはホメオパシーを教える女性の医学校だったのですが、そこはWestbro State Hospital という地域の精神病院とかかわって、ホメオパシー療法を施したのだそうです。で、それはマサチューセッツ州の住民が投票で支持したのですが、マサチューセッツというのはスウェデンボルグ教会がたくさんある土地なのでした。以前なんか文学関係の本で、(19世紀後半に)スウェデンポルグ教会は心の病の治癒に力を入れたというような記述を読んだことがあって、ピンとこなかったのですけれどなんとなく問題のありかがわかってきたような気がしてきました。(うわー、ひとりよがり)  訳さなかった先の英語の引用の "dividing the psyche hierarchically into three separate levels" あたりをちょっと勉強してきます。

  ホメオパシーが、いまはともかく、19世紀前半のアメリカで人気だったのはいくつか理由があって、薬による影響がおだやかで乳幼児にも適用可能だったこと(母親の味方)、宗教心のあるひとたちには治癒の霊的な原理が訴えたこと(宗教的見方)、そして、スウェデンボルグ主義の例でわかるように、あるいはスウェデンボルグ主義と結びついたことにより、当時はやっていた骨相学とか動物磁気説などの治癒や自己開発のシステムととコンパチだったことなどがあげられると思われます。

   次回は骨相学 phrenology=craniognomy を取り上げる予定です。

 karakusa.jpg 

参考url―― 

"F. E. Boericke and His Machine" <http://julianwinston.com/archives/bt/boericke_potentizer.php> 

"Otis Clapp 1820 - 1886" Sue Young Homeopathy: Website of a London-Based Homeopath <http://homeopathy.wildfalcon.com/archives/2008/03/21/otis-clapp-and-homeopathy/>

Alexander Kotok, "The History of Homeopathy in the Russian Empire until World War I, as compared with other European countries and the USA: similarities and discrepancies" <http://www.homeoint.org/books4/kotok/4430.htm>  

「エマニュエル・スヴェーデンボリ - Wikipedia」 

 "Emannuel Swedenborg - Wikipedia" 

 "Swedenborgian Church [Swdenborgianism] - Wikipedia"


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January 7-8 でこちんと骨相学 (前篇)――擬似科学をめぐって(9)  On Pseudosciences (9) [短期集中 擬似科学 Pseudoscience]

January 07, 2008 (Wednesday)
January 08, 2008 (Thursday)

                                                        Nature may be as selfishly studied as trade.  
 Astronomy to the selfish becomes astrology. 
Psychology, mesmerism (with intent to show  
where 
our spoons are gone); and anatomy   
and physiology, become phrenology and       
palmistry.                                                  
――Ralph Waldo Emerson, "Nature" (1844)

   「骨相学」(phrenology) についても、日本語のウィキペディア英語のウィキペディアは、ていねいな記述をしていますので、それを補うような主旨で書きたいと思います。

    図像的には訴えるところがあって、モーリちゃんの父がフレノロジーの「頭蓋マップ」を初めて見たのはジャズにはまっていた大学生のころの、ドン・フリードマンというピアニストのアルバムじゃなかったろうか。と、あれこれWEBで調べてもぜんぜん出てこないのでした。ああ気になる。あ、最近のヒップホップジャズだかジャズヒップホップだかのThe Roots とかではありません。

  ともあれ、こんな絵を見たことがあるひとは多いと思います――

phrenology.gif

phreno1.jpg
image via Roy Selby, "A Bit about Phrenology" Cyber Museum of Neorosurgery http://www.neurosurgery.org/cybermuseum/pre20th/phren/phrenology.html

Phrenology-chart.jpg
via "Quack Medical Apparatus" Sparkmuseum: Early Radio and Scientific Apparatus <http://www.sparkmuseum.com/QUACK.HTM>

phrenology-cranian-fowlerbust.jpg 
image via "phrenology cranian / head" <http://rootsemporium.co.uk/miscellaneous/phrenologyhead.html> 〔これロンドンのポートベロのノミの市 flea market で見たことがありますが、買いそびれました。ファウラーはアメリカですけど〕

 

HintsaboutPhrenology.jpg
"Hints about Phrenology, Ladies Magazine Vol. 6, 1833" The Lost Museum <http://chnm.gmu.edu/lostmuseum/lm/95/> 〔各部位(organ) の解説付き〕

   最後にでかいやつ。――
phrenologicalchart.jpg
via John H. Lienhard, "No. 2148: American Phrenology" Engines of Our Ingenuity <http://www.uh.edu/engines/epi2148.htm> (クリックで拡大)

   催眠術も施術の絵とかたくさんあるのですけれど、ひとつには非常に俗っぽい形で現代(現在)もテレビとかで目にするものであり、もうひとつには、つまるところ術をかけてる人とかかっている人しか見えないので、何が働いているのかわからんわけですけど、こちらの骨相学のほうは目に見えるかたちで(あえて言えば「計測可能な」ようなと思えるようなマップのようなかたちで)提示され、かつその提示がいかにもアヤシゲなので、印象深いのだと思います。こう、自分の頭を投影して解剖されるような感じ。

  ウィキペディアにも画像がいろいろあるのですが、ついたくさん載せてしまいたくなる、そんな感じ。

  さて、フランツ・ガル Franz Joseph Gall, 1758-1828 はドイツのバーデン生まれのローマン・カトリックで、ウィーンで医学を学んだのですが、医学生時代に、言葉の記憶のすぐれた人は目が出ていることに気づきます(まあ、このへんからネチッコイ感じがあります)。その後の詳細な観察で、性格と知性は脳の特定の「器官」の組み合わさった働きではないかとの仮説を立てるにいたります。そして異なる部位にある別個の器官は頭蓋の外形を計測することによって知られると考えた。

  ガルはウィーンの精神病院で医者の仕事をしながら、理論を構築していきます。また、牢獄や学校を訪ねて、調査を行なう。ここで、誤解のないように、ウィキペディアを引用しておきますと、「脳の解剖学神経生理学の研究につとめ、脳髄が繊維のシステムであること、錐体路系とその交差の存在、そして動眼・三叉・外旋神経など各神経の起始点を突き止めるなど、大脳生理学上の多くの発見を行うなど、神経解剖学に大きな功績を残した人物であった」のは事実です。ただ、当時は頭蓋の解剖などは限られた形でしか行なえず、イキオイ犯罪者や狂人に関しての分析が初期のガルの仕事には多かったようなのと、「類推」的なところがあったようです(ちょっと偏っているけれど、Robert Todd Carroll のThe Skeptic's Dictionary の "Phrenology" <http://skepdic.com/phren.html> と、そのちょっとあやしい日本語訳(日本語版)「骨相学 phrenology (cranioscopy)」 <http://www.genpaku.org/skepticj/phren.html> を参照)。

  ガルの講義に感銘を受けたヨハン・ガスパー・シュプルツハイム Johann Gaspar Spurzheim, 1776-1832 はガルの助手になり、1802年にオーストリア政府(当時の国王はフランツ・ヨセフ2世ですが、フランツ・ヨセフ・ガルが音楽家のフランツ・ヨセフ・ハイドン (1732-1809) の頭蓋をみたいと言ってフランツ・ヨセフ国王の怒りを買いパリに追放されたという説はなんか時期がずれてます・・・・・・「ハイドン首なし事件の謎を追う!」参照)追放されたのちふたりで旅をしながら解剖学や生理学の研究を続けるわけですけれど、シュプルツハイムは骨相学の宣伝マンになります。フランスではナポレオンから否定され、しかし名士として貴族サロンに出入りしたりする。滞在中に主著となる『神経系全般、特に脳の解剖学と生理学――頭の形態により人間と動物の知的ならびに倫理的性向のいくつかを確定する可能性についての考察を付す』の執筆を行ない、シュプルツハイムと共著で出そうとしますが、シュプルツハイムとの仲が悪くなって、1812年にたもとをわかったようです。この本は1819年になってようやく出版されます。

  シュプルツハイムは、ガルの「器官」の数を増やし、修正を加え、上に並べたような図版のもととなるイラストや像を制作し、「ガル博士・シュプルツハイム博士のフィジオノミー説」と銘打って講演・執筆活動を続けました。ガルがもともと唱えた Cranioscopie (英 cranioscopy) は、いわゆる脳機能局在論の一種だったのですが、シュプルツハイムはそれを性格・パーソナリティー判断の理論に変貌させます(あえて心理学的にいうと人格・パーソナリティー心理学の初期の型といえなくもないのかもしれませんけれど)。それによって、たいへん大衆的なところへアピールする仕組みがつくられる。 

  イギリスでは確かな地盤をきずいたシュプルツハイムがアメリカに講演にやってくるのが1832年の8月(このボストンの地で腸チフスに倒れてしまうのですが、彼の脳や頭蓋や心臓は標本となって展示されたそうです。先にガルは1828年にパリで没しています)。同年11月10日に亡くなったシュプルツハイムの葬儀の日にボストン骨相学協会が創設されます。そしてアメリカで爆発的に流行することになるのですが、それに力があったのは、ファウラー兄弟 Orson Squire Fowler, 1809-87、Lorenzo Niles Fowler, 1811-96 でした。オーソン・ファウラーはフィラデルフィアで1838年に『アメリカの骨相学雑誌 American Phrenological Journal』を創刊し、『婚姻――伴侶選択に応用せる骨相学Matrimony, or Phrenology Applied to the Selection of Companions 』 (1842) とか『自己啓蒙と人格の完成 Self Culture and Perfection of Character』 (1843) といった本をたくさん書いています。弟のロレンツォも講演をしたり本を書いたりもしましたが、やがてニューヨーク市とさらにロンドンでファウラー商会L.N. Fowler & Co. を経営し、出版物を頒布するとともに磁器製の像 ("phrenology head") を販売します。

  一種のファミリービジネスという様相なのですが、ロレンツォの奥さんのリディア Lydia は『骨相学のやさしい教本――学校と家庭で子供と若者向きに Familiar Lessons on Phrenology, designed for the use of children and youth in schools and families』という本を出したりもしています (New York: Fowlers and Wells, 1847)。

  スコットランドのジョージ・クーム George Combe, 1788-1853 やアメリカでもチャールズ・コールドウェル Charles Caldwell, 1772-1853 などが上流階層というか、牧師や医者や思想家といった知識層に骨相学を訴えたのに対して、たいへん俗っぽいかたちで流行っちゃいました。

   ただ俗だったわけでなく、1840年代のアメリカで、一種の応用科学みたいなものとして受け入れられた骨相学は、牢獄の改革とか、教育や子育てとか、雇用者の選択とか、食餌療法やコルセット使用の可否の判断とか、そして低料金での性格判断とか、いろいろな方面で利用されたのでした(まあ俗か・・・・・・しかしまもなくメスメリズムと結びついて思弁的な展開も示したのだと考えられます)。

Americanphrenjournal.jpg
via "phrenology" <http://skepdic.com/phren.html>

  ところで、先ほど言及し、また上の図版を引いてきたロバート・キャロルの『懐疑家の辞典』は、擬似科学関連のリンクで日本語のウィキペディアによく出てくるのですけれど、英語だとつぎのような一節があります。――

It remained popular, especially in the United States, throughout the 19th century and it gave rise to several other pseudoscientific characterologies, e.g., craniometry and anthropometry. Phrenology was highly praised by Ralph Waldo Emerson, Horace Mann, Thomas Edison, and Alfred Russell Wallace. The Boston Medical Society welcomed Spurzheim as a heroic figure when he arrived in 1832 for The American Tour.  (それ〔骨相学〕はとくにアメリカ合衆国では19世紀をとおして人気があり、クラニオメトリーとかアンソロポメトリーなど、他の擬似科学的な性格学を生んだ。骨相学はラルフ・ウォルドー・エマソン、ホレス・マン、トマス・エジソン、アルフレッド・ラッセル・ウォレスによって高く評価された。ボストン医学協会はシュプルツハイムがアメリカ・ツアーで1832年に到着したときに英雄として歓迎した。)

  このへんに重なる日本語版の記述は、「骨相学は19世紀を通じて、特にアメリカで流行し、頭蓋測定学人体測定学など、その他の疑似科学的性格診断を生み出した。スパルツハイムが1832年にアメリカへ外遊した時、ラルフ・ワルド・エマーソン、ホーラス・マン、ボストン医学会は、骨相学を称賛した。」です。

  エマソンは基本的にはいわゆる擬似科学を批判した人です。いずれ述べるようにエマソンを中心とするアメリカン超絶主義の擬似宗教的側面は、擬似科学の一部の主張と通じ合うものをもっていると自分は考えていますけれども。

  このあいだ、ウィキペディアの「占星術」の記事(を自分が引いたやつ「December 28-29 擬似科学をめぐって(2) 魂の学としての心理学 On Pseudosciences (2)」)を読み直していたら、「ケプラーが「このおろかな娘、占星術は、一般からは評判のよくない職業に従事して、その利益によって賢いが貧しい母、天文学を養っている」[1]と書いたように」というくだりがあって、それで連想が働いたのですけれど、エマソンはエッセー「自然」(有名な1836年の『自然』ではなくて、その後の1844年の短いもの)で、次のように書いています。――「自然は商売として利己的に学ぶこともできる。天文学は利己的な人間には占星術となる。心理学はメスメリズムに・・・・・・そして解剖学と生理学は骨相学と手相学になる。」

  不思議なのは、ガルはもともと Cranioscopie と唱え、それは「頭蓋」にかかわるのでした。つまるところはモノです。phrenology という呼称を選んだのはシュプルツハイムです。phreno とは、「精神」です。この逆転と見えるものは、シュプルツハイムの商売っ気なのでしょうか("phrenology" は、日本語ウィキペディアが書いているように、1815年にイギリス人が呼んだのを、シュプルツハイムがのちに採用したということです。――

「骨相学」の名の由来

ガルは「cranioscopie」(脳蓋観察論)とよんでいた。 「骨相学」という名前は、1815年にフォースター(T.I.M.Forster)がガルの学説をイギリスに紹介する際に使った「phrenology」という名称をシュプルツハイムが1818年に取り入れ広まったものである。

これはギリシア語のφρήν(「心」の意味する)に由来するphrēnと、同じくギリシア語のλόγος(「知識」を意味する)に由来するlogos(ロゴス)からなる語である。

  この記述に違和感があるのは、phrenology が「骨相学」の名の由来となってはいないからですw

  最後にでこちんの絵をかかげて、後篇へつづきます。

Dekochin-YamaneAkaoniAooni.jpg

needle-beadx200.png

 「骨相学 - Wikipedia」 <http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AA%A8%E7%9B%B8%E5%AD%A6>

"Phrenology - Wikipedia" <http://en.wikipedia.org/wiki/Phrenology>

"Reading Heads & Ruling Passions - Museums - The University of Sydney" <http://www.usyd.edu.au/museums/whatson/exhibitions/cphrenex.shtml> 〔"An Exhibition on Phrenology" 図版や文献など豊富なWEB ミュージアム〕

 


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January 8 コトバの問題とコトバだけじゃない問題・・・・・・でこちんと骨相学 (中篇)――擬似科学をめぐって(10)  On Pseudosciences (10) [短期集中 擬似科学 Pseudoscience]

January 08, 2009 (Thursday)

  承前

  もう一度、日本語ウィキペディアの、「「骨相学」の名の由来」の一節を引用します。――

ガルは「cranioscopie」(脳蓋観察論)とよんでいた。 「骨相学」という名前は、1815年にフォースター(T.I.M.Forster)がガルの学説をイギリスに紹介する際に使った「phrenology」という名称をシュプルツハイムが1818年に取り入れ広まったものである。

これはギリシア語のφρήν(「心」の意味する)に由来するphrēnと、同じくギリシア語のλόγος(「知識」を意味する)に由来するlogos(ロゴス)からなる語である。

  WEB上で(全部ではないですが)読める本としてEdwin Clarke と L. S. Jacyna の『神経科学の諸概念の19世紀の起源 Nineteenth-Century Origins of Neuroscientific Concepts』 (University of California Press, 1992) があります。<http://books.google.co.jp/books?id=38Sjkp-JlPcC> 他にもいろいろな本があるのでしょうけれど、広い世界でめぐりあった(というか日本で買ったままほとんど読んでいなかった)のはなにか多生の縁もあるかというのと(非科学的)、たいへん面白かったのとで、( ..)φメモメモ的に紹介します。222ページから223ページにかけての "6.3.2 TERMINOLOGY" の節には、概略つぎのように書かれています。

  ガルの名は "phrenology" と一般に結びつけられているけれど、ガル自身はこの「フレノロジー、精神の理論」なる言葉をつくったのではないし、使うこともなかった。ガルが最初に用いた言葉は Schä
dellehere
 ("craniology")  だった。 しかしガルはこの言葉をやめてしまう。その理由は、彼の学説がもっぱら頭蓋に関するもので、頭蓋に含まれる脳の機能に二義的にしか関わらないとの印象を与えるから。ガルがフレノロジーという名称に反対したのは、脳の機能が精神 (mind) だけではないからというものだったが、これは小さな異議に思われる。フレノロジーはガルの基本的な考えと合致する最善の呼称ではなかったか? その理由は、シュプルツハイムによって唱えられ、当初の脳機能についてのガルの考えを修正されたフレノロジーに対する異論だったと考えられる。ガルの説のふたつの理論に即して、別の名前が考えられた。ひとつはオルガノロジー organologie ("organology")〔F. J. Gall, Organologie (1825) と著作のタイトルとしている〕、もうひとつは、その「器官」が及ぼす効果のあらわれとその計測にかかわる "organoscopy" "cranioscopy" "Encephalonomy" "cephalonomy" (「脳の機能」の意味)などなど。だが広く使われるにはいたらなかった。それから、初期の表現には "physiognomical system" というのもあった。

   つづけて、phrenology という語の採用についての興味深い、しかし謎も残る説明があります。

  トマス・イグネイシャス・マリア・フォスター Thomas Ignatius Maria Foster, 1789-1860 が1815年に書いた、ガルとシュプルツハイムについての論文で "phrenology" という言葉が初めて使われたとよく述べられるが、1805年にアメリカのフィラデルフィアのベンジャミン・ラッシュ Benjamin Rush, 1745-1813 が講演で「精神 (mind) の科学を指す言葉をつくることが許されるなら、フレノロジーというものの状態は・・・・・・ phrenology, if I may be allowed to coin a word to designate the science of the mind」 というふうに用いているし、さらに翌年の1806年にラッシュはphrenology を「人間精神の機能と作用の歴史 the history of the faculties of the mind」と定義し、今日の "psychology" の指す意味で用いている〔P. S. Noel and E. T. Carlson, "Origins of the Word "Phrenology'" American Journal of Psychiatry 127 (1973), p. 695〕。けれども人口に膾炙する "phrenology" の使用権をもったのはシュプルツハイムだった(彼はイギリス人のフォースターと滞英時に知遇を得ています)。ガルと袂を分かって6年後の1818年、シュプルツハイムは初めて "phraenologie" の語を用います〔Spurzheim, Observations sur la Phraenologie (1818)〕。そして翌年、エディンバラのジョージ・クームは、シュプルツハイムはフレノロジーという言葉を何年か "for some years" 使ってきた、と明言する〔George Combe, Essays on Phrenology (1819)〕。しかしまた、1817年にシュプルツハイムの賛同者が既に "phrenology" の語を提案していたということもある。この人のいう理由は、ガルの議論を思い起こさせるところがあります。――「craniology はシュプルツハイムの敵の造語である。彼が扱うのは骨ではなく、人体組織に依存する精神のあらわれにこそある。フレノロジーがより適切なことばであろう」〔S. R., "Observations" (1817), p. 367〕

  1820年までには、シュプルツハイムはフレノロジーの語を自分のものとし、1825年には次のような説明を加えています。――

  PHRENOLOGY という名前はふたつのギリシア語に由来する――[phrene]mind 〔心というより頭、「精神」〕 と [logos]―discourse〔(言)説、コトバ〕。私がこのことばを選んだのは、精神の特殊な機能、ならびにその機能の顕現と体、とりわけ脳とのあいだにある関係についての理論を指し示すためである。〔Spurzheim, Phrenology (1825), p. 1〕

  で、著者たちは、いろいろ踏まえてみても、"phrenology" の正確な起源はなお曖昧糢糊としていると述べます。フォースターがラッシュから盗用したのか、シュプルツハイムがラッシュからとったのかフォースターからとったのか、あるいは自分で主張するように独自にこしらえたのか。はわからないと。

  T. I. M. Forster はイギリスの外科医で、1815年に "Sketch" という論文のなかで "The objection therefore falls to the ground, which accuses the new Phrenology of supporting the doctrine of Fatalism" (p. 222) という文章を書いています〔47〕。「the new Phrenology 新しいフレノロジー」というフレーズは、phrenology が(大文字であるにもかかわらず)普通名詞として了解されているような気配があると感じますけれど。

  次の節の "6.3.3 ORGANOLOGY VERSUS PHRENOLOGY" は、自分にはたいへん示唆的な記述と思われ、ガツンとやられた、というほどでもないけれども、コトバだけで観念的に考えることの危険性を教えられました。

  著者たちは、ガルのオルガノロジーとシュプルツハイムのフレノロジーを区別することが決定的に大事だ、といって、二人の姿勢と二人の考えを比較します。(1) ガルは心的知的過程と頭蓋の部位のあいだに普遍的な関係性があることには懐疑的でありつづけ、とりわけ発達した「器官」を示すごく少数の個人に関して連関が見られると考えたのに対して、シュプルツハイムはそのような留保をしなかった(それによって万人に適用されるものとして喧伝した)。(2) ガルは人間における悪の性向の存在を認めたが、シュプルツハイムは自分の分類から意図的にそういう部分を落とした(彼が性善説を信じたため)。シュプルツハイムは、人類はフレノロジーの助けによって完全性に近づけると信じた。 (3) 脳の「器官」について、ガルはリストの不完全性を認めたが、シュプルツハイムは「希望」などの「器官」をいくつか追加するとともに「記憶」についてはガルが4つ分類していたものを器官として認めなかった。・・・・・・シュプルツハイムの説明は科学的な心理学とはまったく無縁のものである云々。 (4) ガルは経験的姿勢を崩さず、いまでいう実験心理学者に近い姿勢を保ったが、シュプルツハイムは次第に脳の解剖学や生理学から離れて、形而上学や、あるいは教育、宗教問題などの話題にかかわるようになっていった。・・・・・・ 

  ということで、両者を区別して呼ぶことを言明して、ガルの「オルガノロジー」のほうの専門的な話へと入っていきます。

    ここで、ひとつ、あらためて浮かび上がるのは、形而上学の、ひろく「学問」からの分離の問題であるのですが、また同時に、形而上的問題と世俗の関心のつながりの問題でもあると思われますが、も一度体勢をたてなおして凸撃したいと思います。(が、もしかすると、もうちょっとコトバ問題を続けるかもしれません)。

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January 8-9 横隔膜と頭と心についての覚え書(コトバの問題のつづき)・・・・・・でこちんと骨相学 (中篇の2)――擬似科学をめぐって(11)  On Pseudosciences (11) [短期集中 擬似科学 Pseudoscience]

January 08, 2009 (Thursday)
January 09, 2009 (Friday)

     〔「January 8 コトバの問題とコトバだけじゃない問題・・・・・・でこちんと骨相学 (中篇)――擬似科学をめぐって(10)  On Pseudosciences (10)」につづいて骨相学 (phrenology) などの言葉の意味について考えてみます。〕

Phrenology-helmet.jpg
19世紀末にドイツでつくられた電気式骨相測定装置 via "Quack Medical Apparatus" <http://www.sparkmuseum.com/QUACK.HTM> in Spark Museum

   辞書は時代を、ちょっとのタイムラグで、反映しているという想定のもと、いくつかメモってみます。まず、『オックスフォード英語大辞典 Oxford English Dictionary』。 OED は、そもそも歴史原則にのっとって、歴史的記述をこそ眼目に置いたもので、辞典がつくられた時点ではなくてなるたけ履歴的な記述を心がけておるわけでしょうが、これの用例を見ると、たいへん豊かな情報を与えてますね。

  まず、"phrenology" の定義については、語源欄でギリシア語のこととかフランス語、ドイツ語のかたちを書き、文字どおりには "mental science" としたあと、こう書かれています。――

The scientific study or theory of the mental faculties (quots. 1815, 1881); spec. (and in ordinary use), the theory originated by Gall and Spurzheim, that the mental powers of the individual consist of separate faculties, each of which has its organ and location in a definite region of the surface of the brain, the size or development of which is commensurate with the development of the particular faculty; hence, the study of the external conformation of the cranium as an index to the development and position of these organs, and thus of the degree of development of the various faculties. (精神機能の科学的研究、理論(引用1815, 1881)。《特に、また通常の意味として》 個人の精神的能力は異なる機能から成り立ち、それぞれが脳の表面の一定の領域に器官と場所を占めており、そのサイズと発達は特定の機能の発達と比例するとする、ガルとシュプルツハイムに始まる理論。そこから、器官の発達と位置の指標としての頭蓋の外的形状について、またまたさまざまな機能の発達の度合いについての研究。)

  最後の "thus of the degree of development of the various faculties" の最初のof はどこにかかっているのか曖昧なのですけれど、study of と取りました(of 多すぎw)。

  引用1815年というのは、実はForster です。"1815 T. Forster (title pamph. in Pamphleteer V. 219), Sketch of the new Anatomy and Physiology of the Brain and Nervous System of Drs. Gall and Spurzheim, considered as comprehending a complete system of Phrenology.  Ibid. 222 The objection therefore falls to the ground, which accuses the new Phrenology of supporting the doctrine of Fatalism. [When reprinted in the same year, ‘Phrenology’ was altered to ‘Zoonomy’.] " 1815年の『パンフレッティア』の第5巻の219ページから始まるフォースターの小文のタイトルに 「フレノロジーの統一的学説を包含すると考えられるガル博士とシュプルツハイム博士の脳ならびに神経系の新しい解剖学と生理学についての小論」というかたちで入っているのと、222ページの本文にも出てくること、ただし同じ年にリプリントされたときには "Phrenology" は "Zoonomy" に変えられた、という情報です。これは前の記事で紹介した研究書にも書かれているのですけれど煩瑣になると思って書かなかったのですが、情報源はOEDなんですかね。それでも Nineteenth-Century Origins of Neuroscientific Concepts の著者たちはちゃんと原典にあたっていて、タイトルは「Zoonomy ゾウノミー」(これはphysiology (生理学) の意味の古い言葉のようです)に換えられているが、"phrenology" の語は88ページとか102ページで使われている、でも定義はない、とていねいに記しています(p. 428, note 47)。

  そして1881年の用例というのは(OED の用例のこれが最後なのですが)、"Smithsonian Inst. Rep." とあるので、スミソニアン協会 Smithonian Institution (1846年創立) の報告書と思われます。動物にも知的能力はあるけれども、人間にしかないものもあって、それは別個の研究を必要とする云々、と書かれたあとで、"To all these studies we have given the name of Comparative Psychology or Phrenology. " と書かれています。簡単に言うとpsychology の同義語です。もうちょっと言うと、psychology は本来はプシュケーの学で、プシュケーは同じギリシア語のプネウマ(霊)に対して「魂」ですけれど、英語でいうと spirit と soul の関係というのはたいへん曖昧なところがあるわけで、人間を構成するのは body and soul (だから「全身全霊で」という全人的な傾注は英語だと "body and soul" (でも身も心もという日本語もあります)というわけですが)とか、でも霊肉の相克(古っw)とかいうときは spirit and flesh であるとか、死後も残るのが soul だとか、要するに、人間の構成するものとして、主観的な自我、感情や思考の働きが soul なのか、それとも soul は個々の自我を超えたもの(霊的なものといってもいい)も含んでいるのかが、曖昧なわけです。

  モーリちゃんの父(自分)以外、誰も覚えていないと思いますけれど、10月に「October 18 コンフュージョン Confusion」というある意味しょーもない記事を書いたときに、「phreno というのはギリシア語で「ココロ mind」で、ココロのありかがどこにあるかという問題をはらんでいるので、いつか考えてみたい気がしてきた(なんで骨相学はphrenology なのか、とか)。」書きました。まあ、そこから最近の記事はつながっていたのか、と思い当っているのですけれど(爆)、ギリシア語のphren 自体本来は「横隔膜 diaphragm」の意味です(というかのちに横隔膜と呼ばれるあたりの体の部位を指す、というのが正しいのかもしらんが。科学的には)。しかし既に古代ギリシア語において「精神」を指す意味も生じているのは、つまり横隔膜のあたりに精神の座がある、と考えられたからにほかなりません。「心 heart」が「心臓 heart」にあると考えられたように、です(ほんとうはモノが先か、ココロが先かはちゃんと調べてみないとわからないですけど)。

  ウィキペディアの「骨相学」の記事は、語源的に「ギリシア語のφρήν(「心」意味する)に由来するphrēnと、同じくギリシア語のλόγος(「知識」を意味する)に由来するlogos(ロゴス)からなる語である」と書かれてるわけですが、少なくとも英語との歴史的な対応で判断する限り、mind であり、心というよりは頭、少なくとも「心的」だけでなく「知的」なところを含んでいると思われます。OED はphrenology を字義的には "mental science" としているわけですけれど、mental はメントレの「メン」であり、mind の形容詞、語源的にはラテン語の mens に由来します。mens は、モーリちゃんの父の知識では、少なくともイタリアルネサンスのころの人文主義者たちが書いたものでいうなら、霊的なものも含んでいる気配があります。

  もういまさらいうまでもなく、自分の文章は科学的な記述ではなくて憶測と想像が多いのですが、そのへんは覚え書ということでお許し願いたいのですけれど、敢えて言うなら「仮説」としては、ルネサンスに始まる人間中心主義、個人主義の流れの中で、(前に悪の原因としての悪魔とか悪霊みたいなことに触れましたけれど)、人間の知的な活動の源泉はどこにあるのか、ということもいずれ問題になることだったのではないか、と考えられます。典型的なのは芸術家と「インスピレーション」の問題で、たとえばエドガー・アラン・ポーは、霊感などというものはない、という姿勢を表明したうえで唯美主義、芸術至上主義的な立場を鮮明にするわけです。そういう時折りの霊の訪れだけでなく、知的な精神(まったくコトバに混乱するのですけれど、日本語の「精」も「神」も、いうまでもなく本来超越的、霊的、神的なものなわけですが)も神に起因していたのが、個人の内にのみ、原因が求められるようになっていくのではないか。

  辞書の話を続けて、ウェブスターというアメリカの辞書の記述を検討するつもりだったですが、頭が乱れてしまったようです。ちなみにphren に由来する英語で、横隔膜、フレノロジー以外に有名なのは frenzy (古くはf=ph)ですが、「逆上」「乱心」とか英和辞典には書かれていますね。頭じゃなくて心が乱れたのかしら。

      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  OED には "phren" (フリーンという発音みたい)という見出し語もあって、その語源欄には、「近代ラテン語経由だけどもとはギリシア語で、フレネーは "midriff" 〔横隔膜〕、複数形のフレネスとなると "parts about the heart, breast; heart, mind, will" 〔心臓の周囲の部分、胸; 心、精神、意志〕」という主旨の説明がありますねー。そして定義の1は解剖学用語としてで、"The diaphragm; the upper part of the abdomen: anciently supposed to be the seat of the mind." 〔横隔膜; 腹部の上の部分――古くは精神 (mind) の座と考えられた〕という説明、定義の2は哲学用語としてで、"The seat of the intellect, feelings, and will; the mind." 〔知性、感情、意志の座; 精神 (mind)〕という説明です。

  ううむ。自分の知識としてもうひとつあるのは、英語だとbowel(s) つまり「腸」「ハラワタ」が情や勇気の宿る部分と古くは考えられていたということです。ガッツだぜ♪、というguts も関係あるのだと思いますが。常識的に考えれば、洋の東西を問わず、単一の部位ではなくて、内臓のさまざまな場所に「精神」的な働きが宿る場所があったのでしょうね。

  つらつら思うに、ガルの説というのは(19世紀に「科学」として成立したらしい)心理学よりとっくの先に人間の感情と意識と知性の働き(さらにmind 以外の機能もですが)を脳にすべて還元しちゃう方向をむいていたように見えるのですがまちがっているでしょうか。そこでは知と情すなわちヘッド対ハートというような、アメリカ文学でよく示されるような対立図式が、少なくともヒユのレベルでは壊されてしまっているのでしょうか。すでにして。

      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  断章的になってきたので、ウェブスターはあらためて書くことにします(断腸の思いで、というのはウソですがw)。

      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   OED の "phrenology" の項目だけでもカタをつけておこうと思います。用例の2つめは、"1817 Blackw. Mag. I. 367 The word Craniology is an invention of Spurzheim's enemies. It is not of the bone he treats, but of the manifestations of the mind as dependent on organization. Phrenology would be a more appropriate word. " というものです(「craniology 頭蓋学 はシュプルツハイムの敵の造語である。彼が扱うのは骨ではなく、人体組織に依存する精神のあらわれにこそある。フレノロジーがより適切なことばであろう」)。はい。これは前の記事で書いた、 "S. W." というイニシャルだけの誰かわからない人の記事です。Blackw. Mag. というのはスコットランドのエディンバラの Blackwood's Magazine のことで、後期のゴシック小説を載せたことで有名な雑誌ですね。これとつきあわせて考えると、"Observations" という欄のたぶん投稿記事だったと想像されます。用例の4つめは、"1819 G. Combe Ess. Phrenol. Introd., The real subject of the system is the Human Mind: I have therefore adopted the term ‘Phrenology’ ... as the most appropriate, and that which Dr. Spurzheim has for some years employed." (「学説の真の主題は<人間精神 Human Mind> である。だから私は「フレノロジー」の語を採用する・・・・・・最も適切な語としてであり、シュプルツハイム博士は何年も用いてきたものである」)  これまた前の記事で Nineteenth-Century Origins of Neuroscientific Concepts の記述に言及されていた、スコットランドのジョージ・クームの文章です。そして4つめはなんと・・・・・・エマソンです(w)。これは自分が前の記事で引用したのと同じ箇所です――"1841–4 Emerson Ess., Nature Wks. (Bohn) I. 228 Astronomy to the selfish becomes astrology;... and anatomy and physiology become phrenology and palmistry."。そして5つめは "1866 Brande & Cox Dict. Sc., etc. II. 896/1 By forcing the inductive method of enquiry into mental philosophy, phrenology has laid the foundations of a true mental science. " (「精神の哲学に帰納的な探究の方法を押し通したことによって、フレノロジーは真の精神科学の土台を築いた」)という文章。そして上に引いた1881年のスミソニアン協会の文章でOED 用例はおわりです。こう見ると、19世紀までのところでは、少なくともphrenology の語は必ずしも悪い意味合いで、あるいは非難されるものとして使われてはおらなかったように考えられます。おそらく、その後の「骨相学」の人種差別的な適用が、はじめに大英帝国の植民地政策において、そして同じイギリスで提唱される優生学、ドイツで提唱されナチズムにつながっていく人種衛生学(民族衛生)において、行なわれることによって、決定的に phrenology はイメージダウンしたのでしょうね。

     つづく。

TaylorIMMoePhrenologyM.jpg

via

"Chapter 15 - In the Minds of Men, Fifth Edition" <http://www.creationism.org/books/TaylorInMindsMen/TaylorIMMo15.htm> : "An illustration from Thomas Sewall's 1837 lectures on phrenology showing the use of the craniometer.  Originally intended for the determination of personality, its use was eventually confined to the measurement of intelligence and assessment of "racial characteristics".  (Academy of Medicine, Toronto)" (トマス・スーアルの1837年の講義録における頭蓋測定器を示すイラスト。もともと人格の測定の目的に向けられたものだったが、結局は知性の計測と「人種的特徴」の査定に使用は限定されることとなった。)

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January 10-11 コトバの問題のつづきでアメリカの辞書・・・・・・でこちんと骨相学 (中篇の3)――擬似科学をめぐって(12)  On Pseudosciences (12) [短期集中 擬似科学 Pseudoscience]

January 10, 2009 (Saturday)
January 11, 2009 (Sunday)

  「January 8-9 横隔膜と頭と心についての覚え書(コトバの問題のつづき)・・・・・・でこちんと骨相学 (中篇の2)――擬似科学をめぐって(11)  On Pseudosciences (11)」のつづきになります。

   アメリカの標準的な辞典である(メリアム)ウェブスターの辞典は "phrenology" をどのように記述してきたのでしょうか。

  日本語のウィキペディアの「骨相学」は英語と同じく19世紀末のウェブスターの辞典の挿絵つき定義を掲載しています。

300px-1895-Dictionary-Phrenolog.png
(クリックで拡大ページへ)

  日本語のほうのキャプションを引けば、「1895年のウェブスター現代英英辞典に掲載された骨相学によるの地図。ガルによれば、脳は、色、 音、言語、名誉、友情、芸術、哲学、盗み、殺人、謙虚、高慢、社交などといった精神活動に対応した27 個の〈器官〉の集まりであるとされた。」 英語のほうは、ちょっと違う位置に同じ図版があるのですが、キャプションは "A definition of phrenology with chart from Webster's Academic Dictionary, circa 1895" (「ウェブスター・アカデミック辞典(1895年ごろ)から、チャートを付したフレノロジーの定義」です。英語のほうの"File" 説明ページ <http://en.wikipedia.org/wiki/File:1895-Dictionary-Phrenolog.png> を見ると、しかし、タイトルとはズレた、"This is an illustration and defenition of 'phrenology' from Webster’s Dictionary circa 1900." という文が付いていますw。1828年のノア・ウェブスターの初版の辞典以来、辞書戦争をくぐりぬけて、メリアム・ウェブスターが本家ウェブスターを名乗って現在に至るわけですが、本家のなかでも各種辞典が――つまり、有名な2版、3版の国際版のほかにも――いろいろ出されたのはあたりまえといえばあたりまえです。ちょっと検索してみて、たいへん感心したのは、愛知大学のHayakawaさんの「英学とウェブスター辞書」というページ <http://taweb.aichi-u.ac.jp/hayakawa/isamu03.html>。有名な 「非縮約 unabridged」、縮約版、高校用とか19世紀からあって、1895年に "A Dictionary of the English Language" の本題は他と同じで、確かに "Academic Dictionary" と称するものが出ています(もっとも、この年だけの出版と考える方が不自然ですけれど)。

  で、本体にあたらないと、ほんとは何年のものかはわからないのですが、ともかく、日本語の「現代英英辞典に掲載された骨相学による脳の地図」というキャプションにもかかわらず、チャートだけでなく定義が冒頭に入っています。

1. Science of the special functions of the several parts of the brain, or of the supposed connection between the various faculties of the mind and organs in the brain.  2. Physiological hypothesis that mental faculties, and traits of character, are shown on the surface of the head or skull; craniology.  (1.脳のいくつかの部位の特別の機能について、あるいは精神のさまざまな機能と脳内の器官とのあいだに想定される結びつきについての科学  2. 精神の機能、また人格の特徴が、頭の表面ないし頭蓋に示されるという生理学的仮説; クラニオロジー(頭蓋学))

  WEB上で参照可能なウェブスターの標準辞典のサイトとして、ARTFL Project の、1828年の初版と1913年国際版を合体させた "Webster's Revised Unabridged Dictionary (1913)" <http://machaut.uchicago.edu/websters> があります。それで "phrenolgy" を引くと、両者の定義がつぎのようにでてきます<http://machaut.uchicago.edu/?action=search&word=phrenology&resource=Webster%27s&quicksearch=on>実際の表示の順序をひっくりかえして、まず1828年版(つまり「ウェブスター初版」)――

PHRENOL''OGY, n. [Gr. the mind, and discourse.] The science of the human mind and its various properties. (人間精神とそのさまざまな特性についての科学)

Phrenology is now applied to the science of the mind as connected with the supposed organs of thought and passion in the brain, broached by Gall. (フレノロジー(骨相学)の語は、現在、ガルによって提起された、脳内の思考や情念の器官と想定されるものと結びついた精神の科学をいうのに用いられている)

  1913年版――

Phre*nol"o*gy (?), n. [Gr. , , the mind + -logy: cf. F. phrénologie.]

1. The science of the special functions of the several parts of the brain, or of the supposed connection between the various faculties of the mind and particular organs in the brain.

2. In popular usage, the physiological hypothesis of Gall, that the mental faculties, and traits of character, are shown on the surface of the head or skull; craniology. <-- considered pseudo-science by all reputable medical personnel, but still believed by --> &hand; Gall marked out on his model of the head the places of twenty-six organs, as round inclosures with vacant interspaces. Spurzheim and Combe divided the whole scalp into oblong and conterminous patches. Encyc. Brit. <-- Illustr. of a chart of phrenology, showing the areas of the skull as "mapped" by Gall. --> 一般的な用法として、精神の機能、また人格の特徴が、頭の表面ないし頭蓋に示されるという、ガルの生理学的仮説)

  色を変えた箇所以外は、1895年だか1900年だかの辞典と同じです。ただし2番の定義のあとに説明的な記述があり、そこのところ句読法とかよくわからんのですが(☞とかあるのかしら)、「――すべての信頼できる医療関係者から擬似科学とみなされている――」 とあり、さらにブリタニカ百科事典から引用して、「ガルは頭の模型に26の器官を、間隙のある丸い囲いで示した。シュプルツハイムとクームは頭蓋全体を隣接する楕円形の区画に分割した。ブリタニカ百科」 そして最後ギュメ <> に入っているのは、WEB的な記述なのですけれど、ここにガルによって「マップ」された頭蓋の図版があった(本来ある)という記述です。

  安易な推測で結論めいたことを書く気はなく、データとして(?) メモっている(?) のですが、とりあえず19世紀末から20世紀はじめにかけてのアメリカのウェブスター辞典の記述については、ガルの「骨相学」が2番の意味にになっています・・・・・・1913年の記述はガルの名を出して明確にする一方、"in popular use" という限定をつけています。つまり1番のほうは"in popular use" ではない。ということは、専門的なコトバの意味として掲げているのだと考えられます。すなわち、脳内の特定の部位が特定の精神活動に結びついているという考えと、それが頭蓋の表面にあらわれるという考えは、いちおう別、ということです。

  それから、1913年版の記述ではより明確に、通俗的なコトバの用法と専門的な(当時はまだコトバ自体は否定されていなかったと考えられるわけですが)用語としての意味を分けているように見えます。

  メモを続けます。"craniognomy" という語もウェブスターの初版からあがっています――<http://machaut.uchicago.edu/?resource=Webster%27s&word=craniognomy&use1913=on&use1828=on> ――

CRANIOGNOMY, n. [Gr., the skull, and knowledge; index; L. , the skull.] The doctrine or science of determining the properties or characteristics of the mind by the conformation of the skull.

   そして1913年版――

n. [Cranium + Gr. , . to know.] The science of the form and characteristics of the skull. 

   それから、"craniology" ――

CRANIOLOGY, n. [Gr., the skull, and discourse.] A discourse or treatise on the cranium or skull; or the science which investigates the structure and uses of the skulls in various animals, particularly in relation to their specific character and intellectual powers. 〔1828 Webster〕

n. [Cranium + -logy.] The department of science (as of ethnology or archæology) which deals with the shape, size, proportions, indications, etc., of skulls; the study of skulls.   〔1913 Webster〕

   頭蓋学というか、少なくともガルにもともとつながっていて、ときにphrenology と同義語として19世紀前半には使われていたクラニオロジーのほうは、1913年の記述を見ると、人類学や考古学のほうへシフトしてしまっているように見えます。(「January 8 コトバの問題とコトバだけじゃない問題・・・・・・でこちんと骨相学 (中篇)――擬似科学をめぐって(10)  On Pseudosciences (10)」参照)

  それにしても、ウィキペディアの引いている19世紀末のウェブスターのチャートは35番まであって、おわりのところに "Some raise the number of the organs to forty-three" (器官の数を43まで上げる者たちもいる)とかか書かれていますけれど、このチャートは1913年版の、「ガルによってマップされた」とするチャートではどうなっていたのでしょうか。気になる。なお、英語版のウィキペディアの "Phrenology" は、ガルの27(26ではないのですが、思うに1番の再生本能とかいうのの器官は小脳にあるので、別格なのではないでしょうか。説明してくれないとわかんないですよね。プンプン)のチャートをリストアップしています。<http://en.wikipedia.org/wiki/Phrenology>

  さらにつづく。


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