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November 19-20 メリーマウントのメイポール(五月柱) II――ルネサンス・フェアをめぐって (下のはじまり)  Renaissance Fair (6) [America]

November 19-20, 2008 (Wednesday-Thursday)

    もう、分類もタイトルもワヤです。「メイポールを巡って (4)」のような気もします。

  ここまでの流れをくわしく書いてもわけがわからんでしょうし、自分でもわからんのですが、いくらかでも簡単に整理しようと重い頭をちゃかぽこ叩いてみると、カリフォルニアのゴールドラッシュの愛唱歌ともなった「おおスザンナ」――この歌は白人が黒人に扮するミンストレルショーのためにつくられた、黒人が話者である歌――がカントリーミュージック&ラインダンスでジェンダー・フリーないしクロス・ジェンダー的なパフォーマンスをはらみつつ作者フォスターの北部どころか南部以上に西部的な装いをもったことの・・・・・・と書きながらズルして自分のタグクラウドを見たら、「おおスザンナまとめ1」というのがあったが、記事は「August 30 性と肉体的接触――ラインダンスとフォークダンス (4)  Gender and Physical Contact: Line Dances and Folk (4)」というのでした。そこでは「男性的なものであったウェスタンあるいはカウボーイを女がのっとること」とか書いてある。つながりが見えず・・・・・・どうやらその後「まとめ」がなかったようで(自傷的自笑)。ま、いきあたりばったりで書いていますんで。そのあと覚えているのはカエル・・・・・・ルネサンス・フェアがアメリカ的な事象であるとともに、とりわけカリフォルニアで、しかも五月祭を模したかたちで発生し、盛んなのはなぜか、というようなところから、話はヨーロッパ対アメリカというようなところに広がりつつ、American psyche というような・・・・・・、ひとつには性的なモノの抑圧と東西南北問題。ただ、そのときに性的というのが必ずしもフィジカルに性的なだけでなくて、女性原理と男性原理の対立というような意味での問題、とりわけ宗教における・・・・・・キリスト教とジェンダーの問題(アメリカに即していえばピューリタニズムと性の問題。歴史的には、17世紀に植民してきたピューリタンならびにその思想的影響を受けた「アメリカ人」の、ヨーロッパ的中世・ルネサンスに対するアンビヴァレントな姿勢、そして宗教的な抑圧が強いアメリカにおけるゴシック的・異教的・ルネサンス的なものの地下水脈的な力、みたいな。そして、えらくシンボリックにいえば、おおスザンナのダンスも含めて、性差の起源でもある聖なる場所たる中心、その象徴である世界軸、その典型であるメイポールに自分なりの話の基軸を置こうかなと(ぜんぜん置けてないっちゅうんや)。それにしても、なんにしても、そんなに簡単に答えが出せるような問題ではないということについては自信があります(半分開き直り)。

  で、思い出したようにアメリカのメイポールの歴史的なおはなし。テキストはナサニエル・ホーソーンの「メリーマウントのメイポール」("The Maypole of Merry Mount" (1836); 翌1837年の Twice-Told Tales 所収: E-text, University of Virginia Library)。

  知恵も付いたので、ヨーロッパとイギリスでの五月柱について書いておきます。ケルトとゲルマンの違いとか、ローマの男根崇拝に由来するかもしれない、という曖昧で意見の一致をみない事柄は捨象し、フレイザーの『金枝篇』のニュートラルな記述をかりれば、ヨーロッパの民衆の春または夏の祭(五月が多いけれど、スウェーデンなど北方では夏至の日)に広くあらわれる象徴として、五月木ないし五月柱があります。その祭は冬が去って夏のサイクルが訪れたことを祝うと同時に、樹木の精霊のもたらす豊穣の力に預かるための儀式であって、一種の樹木崇拝の様相を帯びることになります。古くから見られたふるまいとしては、森へ入って行き、切った木を村へ持ち帰り、皆で祝って立てて祭る、あるいは森の中で切った木の枝を各自の戸口や窓に結びとめる。さらに、そういう習慣から派生した習慣として(これは大陸のほうに見られるようですが)、恋人が森からとってきた若木の枝を意中のひとに贈るとか、若木(苗)をプレゼントするとかが、今日も行なわれています。

  けれどもこの「樹木崇拝」をキリスト教会は偶像崇拝と見ますから、中世に禁止が起こります。しかし、農民の大切な祝祭としてあったわけで、大陸の方ではおおざっぱにいうとキリスト教的ないろづけをされるかたちで容認され、季節はちがいますが、典型的にはクリスマスツリーのようなかたちでキリスト教会内に入るようになる(季節はちがいますけれども、もともとの新たな宇宙のサイクルを祝う意味は、サンタの赤い服――つまり太陽をあらわす――や、飾り付けを行なうツリーそのものに残されています。

  イギリスでは、五月柱はしだいに固定化され、常駐化して、16世紀にはコミュニティー(地域の縄張り)の象徴という意味をもったようです。村同士で五月柱を盗みあうとかもあったようです("Maypole dance" - Wikipedia: In the 16th century maypoles were communal symbols, being erected as group activities by a parish (or by several parishes in concert if they did not have the means to do so individually). They were often the focus of rivalries between villages, who would steal one another's poles. (In Hertfordshire in 1602 and in Warwickshire in 1639 such thefts led to violence.) Owners of woods and forests (such as the Earl of Huntingdon in 1603 who was furious to discover that his estates had been the source of the maypoles used in Leicester) were also the victims of theft, as it was often the case that they were not consulted about the use of their timber.[1]

  そしてプロテスタントは偶像崇拝を嫌悪しますから(だってローマン・カトリックの英国人がしばしば偶像崇拝の嫌疑で告発されたりしましたからね)、あらためてこの異教的な祝祭が問題視されることになります。WEBに落ちているバーバラ・ウォーカーの『神話・伝承事典』の幽霊〔反・ギリシア神話:男根崇拝(Phallus Worship)」〕によれば、「スタブズは1583年に、一般の人々が踊りながら、メイポールに花輪をかける様子を描写している。彼はメイポールを「卑しむべき偶像」と呼んだ[註10]。古代ローマの女性たちは、「蒔いた種を実らせるために」、神リーベルの勃起したペニスに花輪をかけるのを常とした、と聖アウグスティヌスは述べている[註11]。」ということです。このスタッブズの文章はフレイザーが『金枝篇』で引いた有名な文献です。このへん、アメリカの17世紀のメイポールを考える参考になるので、簡略版第1巻10章から引用しておきます。――

      The puritanical writer Phillip Stubbes in his Anatomie of Abuses, first published at London in 1583, has described with manifest disgust how they used to bring in the May-pole in the days of good Queen Bess.  His description affords us a vivid glimpse of merry England in the olden time.  Against May, Whitsonday, or other time, all the yung men and maides, olde men and wives, run gadding over night to the woods, groves, hils, and mountains, where they spend all the night in plesant pastimes; and in the morning they return, bringing with them birch and branches of trees, to deck their assemblies withall.  And no mervaile, for there is a great Lord present amongst them, as superintendent and Lord over their pastimes and sportes, namely, Sathan, prince of hel.  But the chiefest jewel they bring from thence is their May-pole, which they bring home with great veneration, as thus.  They have twentie or fortie yoke of oxen, every oxe having a sweet nose-gay of flouers placed on the tip of his hornes, and these oxen drawe home this May-pole (this stinkyng ydol, rather), which is covered all over with floures and hearbs, bound round about with strings, from the top to the bottome, and sometime painted with variable colours, with two or three hundred men, women and
children following it with great devotion.  And thus beeing reared up, with handkercheefs and flags hovering on the top, they straw the ground rounde about, binde green boughes about it, set up sommer haules, bowers, and arbors hard by it.  And then fall they to daunce about it, like as the heathen people did at the dedication of the Idols, whereof this is a perfect pattern, or rather the thing itself. I have heard it credibly reported (and that viva voce) by men of great gravitie and reputation, that of fortie, threescore, or a hundred maides going to the wood over night, there have scaresly the third part of them returned home againe undefiled.

   ピューリタンの著述家フィリップ・スタッブズは、1583年に最初刊行された『悪癖の解剖』のなかで、(エリザ)ベス女王の時代にメイポールが人々に運び込まれるさまを、あからさまな嫌悪をもって記述している。スタッブズの記述は、古の陽気なイングランドへの鮮明な一瞥を我々に与えてくれる。五月、ペンテコステ、その他の時期に、若い男、乙女、年取った男、人妻、すべての者たちが夜を徹して、森や林や丘や山を遊び歩き、そこで楽しく打ちそろって夜を明かす。そして朝になると、樺その他の樹の枝をたずさえて、集会の場を飾るために帰ってくる。ところで彼らの中には、その楽しみと遊びの支配者および王としての大神が、すなわち地獄の王たるサタンがいる。彼らが持ち帰る主な宝は『五月の棒』であって、非常な尊崇の心をもって遊ばれるのである。彼らは二十くびきまたは四十くびきの牡牛を伴い、その牡牛の角の先には芳香を放つ花束をつけ、これにかの『五月の棒』(というかこの鼻持ちならない偶像)を引かせるのである。ところでこの棒たるや、花と葉で覆いつくされ、てっぺんから根もとまで紐でぐるぐる巻かれ、時としては色とりどりに塗りたくってあって、それには二、三百人の老若男女がいとも敬虔そうにつき従うのである。それからハンカチとか旗などをそのてっぺんからひるがえし、棒を地面にたてて、周囲にわらを撤きちらし、縁の小枝を沢山結び付けて附近にあずまやや亭(ちん)などを建てる。こうして一同がそれを取り巻いて騒々しく踊るのであるが、このさまは偶像奉献の際の異教徒たちに似ており、全くその様式どおり、あるいはむしろそのままでと言った方がよい。きわめてまじめで信用できる人の確かな報告によれば(また直接聞いたところによれば)森林で夜明かしをする四十人、六十人、あるいは百人にものぼる乙女たちのうち、元のままの清い身体で戻って来るのは、せいぜい三分の一くらいなものだという。

  (訳は「祝祭とマスヒステリア」に引用されている岩波文庫訳を少し字句の変更と追加をして利用させていただきました)。バーバラ・ウォーカーはスタッブズが "stynking ydol" (古い英語なので綴りが現在とちがいますが、stinking idol 臭い偶像)と呼んだメイポールを男根崇拝ととらえ、ペニスに輪をかける古代の祭儀につながりを見ようとするわけですが、読んでいただけばわかるように、スタッブズは性的な放縦をメイデーの祭に見ているとはいえ、メイポール自体をペニスに見立てているようすはまったくありません(「亭(ちん)などを建てる」という翻訳はアヤシイですがw)。

  長~いエリザベス女王の御代(1553-1603) の前の短いエドワード6世の時代(1547-53) にいわゆるReformation が起こって、偶像崇拝への攻撃が教会側から起こるのです。ちょっと挿話的事実を引けば、ロンドンのシティーにあるSt Andrew Undershaft 教会の名は、毎年春に教会内で建てられたメイポールに由来するのだそうです。1517年に暴動が起こって行事は終わりますが、1547年までメイポールは残っていたそうです。それをピューリタンの一団が "pagan idol" として破壊したのだそうです(これは "Maypole dance" - Wikipediaによる―"The church of St Andrew Undershaft in the City of London is named after the maypole that was kept under its eaves and set up each spring until 1517 when student riots put an end to the custom. The maypole itself survived until 1547 when a Puritan mob seized and destroyed it as a "pagan idol.")。エリザベス女王自身はメイデーの祭を好んでいたとも言われ、とにかく国と教会が一緒になって問題視するということにはならなかったのですが、その後、世界史で習うように宗教と国と王権と政治とが複雑な関係を示して、その流れからピューリタンの過激派の分離派がイギリスを棄ててオランダ経由でアメリカに新しい宗教的な場を求めるという展開になるわけです。その流れのなかで、五月祭がおかみによって禁止されたり、そのことによってメイポールが民衆にとって反体制の象徴みたいなものになったりもしていく(というのは現代の学者の意見だが)。ともあれ、ピューリタンにとって偶像メイポールの生み出す空間というのは、遊びや飲酒にふけって安息日を守らないこととか、男女の風紀が乱れる(とりあえず男女が一緒の踊りというレヴェルでもそうなわけです)とか、批難されるべきものとしてありました。

WalterCrane1894theworkersmaypole.jpg

 (再掲) Walter Crane, The Workers' Maypole (1894)

  さて、少し先走って、その後のイギリスのメイポールについてメモっておくと、今日とくにイギリスの田舎で見られるような、少女たちが、あるいは少女と少年のグループが、色とりどりのリボンを踊りながら巻きつけていく、というタイプのメイポールは、19世紀になってあらわれたようです――ウィキペディアの"Maypole"の記述を引けば、"The addition of intertwining ribbons seems to have been influenced by a combination of 19th century theatrical fashion and visionary individuals such as John Ruskin in the 19th century."  まあ、推測として書かれておるのですが、リボンを巻き付けるのは19世紀の演劇的な流行とジョン・ラスキンみたいなひとたちの影響があったんじゃないかと。で、そういうタイプの新しいメイポールのダンスが、19世紀末のアメリカでとりいれられ、とくに学校で演じられる。が、それも第二次大戦後にやがて弱まる。がそれが、あるいはそういう関心がはらんでいる心情がもしかするとルネサンスフェアというような新しい装いであらわれたかもしれない〈最後はとくに個人的憶測です)。

  ウィキペディアの"Maypole dance" のほうの記事は、豊穣の祝祭のダンス(それがどんなものであったにせよ)ではなくて今日のようなダンスは、イタリアやフランスにあった「アート」ダンスの影響を受けて18世紀に起こったと言っています。それがロンドンの劇場の舞台にのぼり、それから一般化したと。つまり教師が学んで、それを学校で広めたのであって、「リボン・メイポール・ダンス」はイングランド中部と南部で普及してこんにち「伝統的」なメイデーの特色となっている。―― "The second kind of maypole dancing originates in the 18th century, derived from traditional and 'art' dance forms popular in Italy and France. These were exported to the London stage and reached a large audience, becoming part of the popular performance repertoire. Adopted at a large teacher training institution, the ribbon maypole dance then spread across most of central and southern England and is now regarded as the most 'traditional' of May Day's traditional characteristics." (このへん、「おおスザンナ」のフランス、スペインのダンスとメイデーのダンス(リボン系じゃないやつ)の類似が思い出されて興味深いのですが――「October 30 おおスザンナのお遊戯の中心にポールは立っているか Is There an Imaginary Axis at the Center of Oh! Susanna Child-Dances? 」参照)

  たぶん、両者にソゴはないのかもしれません。ちなみに、リボン・ダンスは大陸のほうでも見られます。

   ちょっと疲れてきたので、読みやすいひと(他人)の文章を参照しましょう。『スポーツ文化資料情報館』 <http://www.eonet.ne.jp/~otagiri/index.html> という、元奈良女子大の先生で現在新潟医療福祉大学におられる小田切毅一というひとが館主の館があります。「案内板」(クリック注意)によれば、「史料情報室」 は・・・・・・「主に身体や運動によって特徴づけられるスポーツ関連諸事象に触れ」るもので、「連載アメリカスポーツ歴史物語」は、「植民地時代から20世紀へと及ぶ、古き良き時代のアメリカのスポーツ発展を跡づける文化史」である、ということですが、そのたぶん後者にあた植民地社会の建設とスポーツ事情」の最初のあたりで、アメリカのスポーツ史の発端、植民地時代のスポーツ否定の問題が挿絵入りで書かれています。

  よく言われるように、ピューリタンは娯楽を禁じました。「ところで北部植民地を中心に強調されるピューリタニズムによるスポーツや娯楽の否定の問題は,ある意味ではメイフラワー号の航海に象徴されるアメリカの出発,さらに自由な新天地としてのアメリカの歴史観とも同調するものであり,その後のアメリカ人のスポーツの受け止め方にも無視できない影響をおよぼした。こうした意味でスポーツの文化史の,まさに出発にかかわる問題として位置づけることができる。」というのが第3節の「ピューリタニズムによるスポーツ否定の問題」の書き出しです。近づいているサンクスギビングデーとも関係することですけれど、1607年にすでに南方ヴァージニア植民地はできていたのに、1620年のプリマス植民地のいわゆる「ピルグリム・ファーザーズ」、つまりより宗教的な一団(と位置づけられるひとびとを中心とすると想定される集団)を、その後のアメリカ合衆国という国は、歴史的に父祖の地位につけたわけです。で、この北部では、厳格なピューリタンの思想がながらく政教一致のTheocracy 神権政治というかたちでひとびとを律したわけでした。「禁欲的生活を旨とし,何よりも彼等の宗教的な自由を貫ぬこうとしたピューリタン(清教徒)にとっては,スポーツに興ずることは異教徒的行為であった。」として、館長は書きます。――

 「飲めよ,そして陽気に陽気に陽気に少年達よ。すべての君達の喜びは,ハイメンの女神(ギリシャ神話で,婚姻の女神)の喜びぞ。女神への歓喜の,今やその日が来た。メイポールのまわりに席をとれ8*。」8) F. R. Dulles; A History of Recreation. p.30.

  J.ウィンスロップをリーダーに,1630年にプリマスから分かれて創設されたマサチューセッツ湾植民地は,それ以後にニューイングランドの植民地の中心となった。こうした出来事が生じた3年前の1627年には,メリーマウントでメイポール建てて,その周囲で開放的な派手なドンチャン騒ぎを演じたT.モートンが,異教徒的な偶像崇拝をきらう近隣の清教徒の激怒に合い,投獄のうき目に合った。

  N.ホーソンは1837年に刊行の Twice-Told Tales の中で, この歴史上の出来事を「メリーマウントのメイポール」という短編の寓話に仕立てている。「メイポールがあの陽気な植民地の権標だった当時は、まさに光り輝くものだった。メイポールを建てる者は、旗を揚々と掲げるように気を配り,花の種を撒くことになっていた。浮かれ騒ぎと憂鬱とが、植民地の覇権を争っていたのである。」

  この寓話で、メイポールを崇拝する集団が行った浮かれ騒ぎ(仮面劇の儀式)は、むしろ史実に反してバッカス祭司による異教徒のそれとして描かれていたと指摘される。こうした仮面劇や, そこに登場する古い時代の情景については,ホーソン自身がその前書きで触れているように,「作品の舞台に豊かな奥行きをあたえるために」,ストラッツによる『イギリス国民のスポーツと娯楽』(1801年)が典拠とされていた。この寓話が史実と異なる最も重要な点は最終部分である。史実のような「投獄」ではなく、この寓話では,結婚しようとしていたメイポールの王と女王は、「苦難な道を天国へ向けて支えあう」ことで, 罪を許されていたことである。 

  ううむ。ひとのことは言えませんが、わかりづらいです(か)ね。最初の段落の、誰の言葉か明確にされていない引用は、つぎの段落で名前の出るThomas Morton (c1576-1647) の詩の孫引きだと思われます。モートンはイギリスのデヴォンシャーの生まれで、法律を学びにロンドンに出て劇作家のベン・ジョンソンの友人となった、ちょっと文人肌の人でした。デヴォンは田舎で、固陋な英国教会派で、プロテスタントたちからは辺鄙な土地とみられていたところ("Thomas Morton" - Wikipedia)。モートンは法律の仕事の関係で、新大陸の植民地にかかわることとなり、1622年についで1624年の航海のときにはCaptain Wollaston と組み、30人の丁稚を率いてアルゴンキン族インディアンの土地を借りて貿易をします。そのときに毛皮と引き換えにライフルや酒をインディアンに渡す。それをピューリタンたちから咎められる。モートン自身は、不寛容な白人に比べて、インディアンの博愛的な態度に感銘を受けた、ということです。やがて貿易業が拡大して、マウント・ウラストン Mount Wollaston と呼ばれる農業コロニーができます。

  ウラストンが丁稚さんたちをヴァージニアのタバコ農園へ「奴隷」として売っていたことを知り、 モートンは離反する。残っていた丁稚さんたちと一緒にウラストンに対して謀反を起こします。ウラストンはヴァージニアへ逃げてゆく。残ったモートンは、Mount Wollaston の名をMa-re Mount (海mare とmerryのかけ言葉だとされています) と変え、ユートピア的な、階級差別のない、コミュニティーをつくることを考えます。そしてアルゴンキン族とのある種の文化的融合も試みられる。モートンは、インディアンたちを定住させて、リベラルなかたちのキリスト教に改宗させようと考えていたようですが、ピューリタンたちは、モートンのふるまいを異教的なものと見て問題視します。とりわけメイポールをめぐるスキャンダラスな噂が流布される。バッカスとアフロディーテを崇める祭を行ない、酒を飲んでインディアンたちと性交に耽っているとか、なんたらかんたら。

  ピューリタンの植民地総督William Bradford は有名な『プリマス植民地』で、スタッブズとちょっと似たトーンで批難しています。――

They [. . .] set up a May-pole, drinking and dancing about it many days together, inviting the Indian women, for their consorts, dancing and frisking together (like so many fairies, or furies rather) and worse practices.  As if they had anew revived & celebrated the feasts of ye Roman Goddess Flora, or ye beastly practices of ye mad Bacchanalians."
彼らは五月柱を立てて、一緒に何日にもわたってそのまわりで飲んだり踊ったりするのだが、インディアンの女たちを相手として招いて、一緒に踊り、跳ねまわり(たくさんの妖精fairiesのように、というか怨霊 furiesのように)、そしてさらに邪悪なふるまいをする。あたかもローマの女神フローラの祭を、あるいは狂ったバッカスの従者たちの獣のようなふるまいを、復活させて祝っているかのようだ。

  館長は史実と違うと言っているけれど、ピューリタンたちの風説では、(そしてすぐ下に引くようにモートン自身の記述でも実は、)古代のバッカスやヴィーナスやらをほうふつとさせる異教的な装いがあったようです。それは、しかし、イングランドのメイデーの祝祭を新大陸に移し、モートンの自由思想によって味付けされたものでした。

  1628年の2度目のメイデーの祭では80フィートのメイポールが立てられます。そしてモートン自身が、館長の引くフレーズに始まる詩を捧げて、皆で歌い踊ったらしい。モートン自身による記述 A New English Canaan (Amsterdam, 1637)に引かれている詩 ――

The Songe

Drinke and be merry, merry, merry boyes,
Let all your delight be in Hymens joyes,
Iô to Hymen now the day is
come,
About the merry Maypole take a Roome.

Make greene garlands, bring bottles out;
And fill
sweet Nectar, freely about,
Uncover thy head, and feare no
harm,
For hers good liquor to keepe it warme.

Then drinke and be merry, &c.
Iô to Hymen, &c.

Nectar is a thing assign'd,
By the Deities owne minde,
To cure the hart opprest with grief,
And of good liquors is
the chief,

Then drinke, &c.
Iô to Hymen, &c
.

Give to the Mellancolly man,
A cup or two of't now and than;
This physick' will soone revive his bloud,
And make him be of a merrier mood.

Then drinke, &c.
Iô to Hymen, &c
.

Give to the Nymphe thats free from scorne,
No Irish; stuff nor Scotch over worn,
Lasses in beaver coats come away,
Ye shall be welcome to us night and day.

Then drinke, &c.
Iô to Hymen, &c
. 〔<http://www.swarthmore.edu/SocSci/bdorsey1/41docs/19-mor.html> 一部英語を現代化しているもの。ひまができたら訳します。今日のところは原文だけでかんべんしてください〕

   そして、ピューリタンたちがメイポールを切り倒して、モートンを逮捕・投獄するという事件が、翌6月に起こります(このへんはホーソーンは時期をずらしているというかあわせているのですが、興味深いのは、"midsummer eve" つまり夏至の日の夕方に時を設定し、メイポールの祭の日にジョン・エンディコット―ジョン・ウィンスロップの前の総督―率いるピューリタンたちがやってくるようにしたことです)。館長は、史実のように投獄ではなく、と書いていますが、もともとモートンはホーソーンの小説の主人公にはなっていません。他の参加者はムチ打たれるのですが、新婚ということでエンディコットから鞭打ちを免除され、しかし男のほうは"pumpkin shell" 型に頭髪を切ることを命じられる(どういう髪型でしょ)。そして、五月の王と王妃たる若い男女は、ふたり手をたずさえて、このメリーマウントから去ってゆく、という結末の一文 ("They went heavenward, supporting each other along the difficult path which it was their lot to tread, and never wasted one regretful thought on the vanities of Merry Mount.")は、誰が最初に指摘したのか知りませんが、ミルトンの『失楽園』の最後のBook X の最後で、アダムとイヴが楽園を追われていくときの文章のエコーがあるんだそうです。

  そうすると、文化人類学的にはけっこう普遍的にみられる、パラダイスの中心に立っている宇宙木、世界樹が断ち切られて、「人間の条件」へ失墜する、という神話(と言うのが罰あたりなら、キリスト教の失楽園の物語)をパロディーであれ、なぞっている部分があるということになるわけです。

  とりあえずのばしのばしにしていた「メリーマウントのメイポール」のおはなしに一段落つけておきます。結果的にわかりにくい文章になっているかもしれませんが、だいぶ神経と脳味噌を費やして疲れました。

  では今日はこのへんで。あとでか、次回にか、参考文献とか追加します。

merrymountlovers-illustr-MerryMountMaypole.jpg

ホーソーンの物語の古い挿絵

 

ブログ村 洋書・洋楽・映画の英語

  2009年1月5日追記   いちおう、「November 6, 25 スートロのメイポール――ルネサンス・フェアをめぐって(下の2) Maypole Dance at the Sutro Baths (1897): Renaissance Fair (7) 」につづきます。また、余談的に「November 26 メリーマウントのメイポールの挿絵について An Illustration of "The Maypole of Merry Mount"」を書きました。


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