SSブログ
150px-Eye.jpg

March 26 2009年3月26日のアルバニ(カリフォルニア)の夕方の空と力うどんのリベンジ [天気 weather]

March 26, 2009 (Thursday)

March26,2009AlbanyCA1921.46pm.jpg
2009年3月26日19時21分46秒のゴールデンゲートブリッジと夕日(クリックで拡大)

 

  

 

⇒このあとの夕焼けの写真をさらに11枚と力うどんを見る?


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

March 28-29 短い文 (ポーの『マージナリア』から) 付 ミュージカルの歌詞についての雑感 [歌・詩]

March 28, 2009 (Saturday)
March 29, 2009 (Sunday)

    私事ですが、このごろどういうふうにブログをまとめてトンズラしようか考えています。まとまっておらず気がかりなのは、ひとつはミュージカルの歌詞について(*)、というか、結局、歌詞について。ほとんど本人ぐらいしか覚えておらないと思うのですけれど、ハナシの元は「おおスザンナ」の歌詞の受容なのですが、いったい歌詞というのは音楽(というより歌曲)にとってどれほど重要なのか、という問題をはらんでいます。書きだしたついでに書いておくと、フォスターはヴァース+リフレイン形式を出して、その後の歌謡曲に先駆けるところあり、だとすれば、ミュージカルにおける歌詞の変奏についても示唆的なものをもったのではないか思われます(たぶん)。「おおスザンナ」の問題には、ミンストレルショーという舞台を離れて曲がひとりだちしたときに、歌詞に何が求められるか、どう理解されるか、ということが含まれていると思われます。既に書いたように、歌詞の3番だかでは話者は自分のことを "this darkie" と呼んでおり、普通には「私」=黒人という歌の物語の世界が追認されるわけですし、この歌の歌詞は一人称の物語を語っていて(まあ、その中に夢の物語も枠として入っているけれど)、だから、簡単に言うと、たいへん特殊な状況を特定の人が歌っているわけです。それを芝居ではなくて(つまりミンストレルで黒人のなりをした白人が演じるのではなくて)日常の空間でふつうの人が歌うときって、どうなるんだろう、という、たいへん素朴といえば素朴な話です。

  いっぽう、アイラ・ガーシュウィンは、実は、バラバラの歌曲の寄せ集めではなくて、ひとつのミュージカルの物語やプロットに相互に関係づけられた統一のある作詞を行なったほとんど最初の人として位置づけられています(急いで付け加えておきますが、これも既にみたように、ボツになった歌を改編してのちのミュージカルで使用するとかはしょっちゅう行なってはいますけれど、まあ、考えてみれば男女の物語というのがミュージカルであれなんであれ物語の基本だから、愛や恋の歌は再使用可能だし、だからこそ特殊な物語状況があっても他の人に歌われ、かつ共感を呼ぶわけでしょうが)。けれどもアイラ・ガーシュウィンのこの努力は、ひとつの歌の自律性、といったらいいだろうか、をヘタをすると損ないかねないかもしれないですよね。その歌がミュージカルの中で置かれたコンテキストが歌詞の意味を左右するからです。

  これらはジレンマですかね。

  で、ほんとうは今書きたいのは、このミュージカル歌詞問題ではなくて、歌詞(コトバ)と記憶という、もっと単純なことで、前置きが長くなりましたが、それについて書くためにちょっといくつか踏み固めておく必要を感じて、今回はポーの文章を引用しておきます。

 Marginalia, CCXIV.


    It is not every one who can put "a good thing" properly together, although, perhaps, when thus properly put together, every tenth person you meet with may be capable of both conceiving and appreciating it.  We cannot bring ourselves to believe that less actual ability is required in the composition of a really good "brief article," than in a fashionable novel of the usual dimensions.  The novel certainly requires what is denominated a sustained effort — but this is a matter of mere perseverance, and has but a collateral relation to talent.  On the other hand — unity of effect, a quality not easily appreciated or indeed comprehended by an ordinary mind, and a desideratum difficult of attainment, even by those who can conceive it — is indispensable in the "brief article," and not so in the common novel.  The latter, if admired at all, is admired for its detached passages, without reference to the work as a whole — or without reference to any general design — which, if it even exist in some measure, will be found to have occupied but little of the writer's attention, and cannot, from the length of the narrative, be taken in at one view, by the reader. <http://www.eapoe.org/works/misc/margd05.htm> 

    「よいもの」というのは、うまくこしらえてしまうと多くの人たちがそれを理解し、鑑賞するけれど、こしらえるのは、誰にでもできることではない。私の考えでは、本当によい「短い記事」を書くのには、ふつうの分量の流行小説を書くのと、少なくとも同程度の才能が必要だ。確かに長篇小説を書くのには、長時間の努力を必要とする――けれども、それは忍耐の問題であって、才能とは間接的関係しかもたない。一方、短い文の場合は、効果の統一ということがぜひ必要であって、それはまた通俗小説にはなくてもいいものである。そして効果の統一は誰にでも鑑賞され、また理解されるものではなくて、理解できる者にとっても実現困難な所望物である。通俗小説がもし賞賛されるとしたら、そのよさはバラバラのパッセージにあるのであって、それと本全体の関係、あるいは本の全体的意匠との関係はどうだっていい。そしてある小説にそういう意匠があったとしても、それは著者が注意を払って工夫したことではなく、また長い話なのだから、読者がそれを一目で看て取ることは不可能なのである。〔吉田健一訳をいくらかもとにした私訳〕

   ここでポーが語っているのは、「ナサニエル・ホーソーン論」などの有名な短篇小説論において、一息に読める分量でなければダメだとかいうことばと一緒に出てくる有名な「効果の統一」のはなしです。結局のところ、効果の統一や全体的意匠の看取が不能なのは、長さゆえ、ということになるようです。

  が、もちっと相対的にミニマルに考えると、第一に、人は短いものでもほんとうに「一目で看取する」 "take[n] in at one view" ということが可能なのか、疑問が生じます。一目でひとつの短篇(詩でも小説でも)を見てとることは、不可能ではないか。数行の詩だって不可能ではないか。あ、俳句くらいならできるかもしらんが。

  そうなると、記憶が介在しなければ看取は不可能なのだ、ということになります。ならないでしょうか。なりますよね。それが一つの問題。

  もうひとつは、短篇においても、バラバラのパッセージが賞賛されるのではないだろうか。いや、賞賛されることも多いのではないだろうか、ということです。歌でいうと、歌詞のひとつのフレーズが記憶にとどまり、あとはなんだかよく了解されないまま、お気に入りになる、という状況。もちろん、歌謡は音楽だから、歌詞 words と曲 musicで、曲の力は大きいのは当然ですが。いや、音楽の力が大きいからこそ、歌詞が全体的に理解されなくてもよしとされるという状況。

  もうちょっと考えてみると、記憶ということと関わるのですけれど、音楽や文学は「時間」に沿って展開するものだ、という「時間芸術」の問題があります。でも話がでかくなりすぎたので、今日は前置きのつもりだったし、ここで切ります。

 

(*) September 15 アイラ・ガーシュウィンの「ス・ワンダフル」 (1)  " 'S Wonderful" by Ira Gershwin (1)にはじまる September 26 アイラ・ガーシュウィンの「ス・ワンダフル」 (1 1/3)  " 'S Wonderful" by Ira Gershwin (1 1/3) の3分の1つづきのSeptember 27 アイラ・ガーシュウィンの「ス・ワンダフル」 (1 2/3)  " 'S Wonderful" by Ira Gershwin (1 2/3)の3分の1つづきのOctober 3, September 30 アイラ・ガーシュウィンの「ス・ワンダフル」 (2)  " 'S Wonderful" by Ira Gershwin (2)のつづきの October 4 ミュージカルの歌詞というもの(上)――アイラ・ガーシュウィンの「ス・ワンダフル」 (3)  On Musical Lyrics: " 'S Wonderful" by Ira Gershwin (3) のつづきのOctober 8, 19 『ファニー・フェース』 (1927) のプロット I ――ミュージカルの歌詞というもの(下の1)――アイラ・ガーシュウィンの「ス・ワンダフル」 (4)  On Musical Lyrics: " 'S Wonderful" by Ira Gershwin (4)のつづきの October 20 『ファニー・フェース』 (1927) のプロット II ――ミュージカルの歌詞というもの(下の2)――アイラ・ガーシュウィンの「ス・ワンダフル」 (5)  On Musical Lyrics: " 'S Wonderful" by Ira Gershwin (5) のつづきのOctober 21 『ファニー・フェース』 (1927) のプロット III ――ミュージカルの歌詞というもの(下の3)――アイラ・ガーシュウィンの「ス・ワンダフル」 (6)  On Musical Lyrics: " 'S Wonderful" by Ira Gershwin (6) あたりでとまって、メイポールやルネサンスフェアのほうへ話が広がってしまったのでした。ああ、そうだ。ジェンダー問題が底流としてあったのでした。

  

///////////////////////////////

参考url―(参考になんかしちゃいないんだけどw ・・・・・・個人的には絵画の時間性というのは別に未来派とかなんとかの問題でなくて、画家が伝えようとしたものが絵を見る人間に伝わるのではなくて、むしろ見る人間の内的なものが投影されざるを得ないような現代美術だか近代美術だかにおいて広くおこってくる問題だと思うのですけど。よくわかりませんが。)―

 時間芸術と空間芸術について――「視覚芸術- Wikipedia」、「ラオコオン論争 - Wikipedia

「8. 時間芸術の特徴を理解しよう」 <http://www.geocities.co.jp/Bookend-Shikibu/3702/howto/howto08.html>


nice!(0)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

March 25 2009年3月25日のアルバニ(カリフォルニア)の空とスナッパーのムニエル [天気 weather]

March 25, 2009 (Wednesday)

   今週は暖かいです。だんだん去年の4月に似てきました。あたりまえですけれど。くるっと一年のサイクルが回るのだな、と感じます。

  朝5時30分の気温、うちのなかが21.4℃(湿度53%)、外が12.2℃。朝8時に21.0(58%)、外11.7℃。10時に21.1℃(56%)、外12.9℃。昼の12時に21.4℃(54%)、外14.5℃。晴れ。10時ごろは快晴。でも午後に雲が出てきました。

  昼前にまた空き缶をリサイクルセンターに運んで、午後はモーリちゃんを小学校に迎えに行きました。小学校の前の菜の花畑はしばらく前からまっ黄色です。

March25,2009AlbanyCA1353.26pm.jpg
2009年3月25日(水)13時53分26秒

  とてもわかりにくいですが、電線にスズメだかなんだかがとまっているあたりから鉛直に線をおろして右手に金網で囲まれた菜の花畑があります。左側は本来の畑からはみ出して道路の側に咲いています。いえ、はみだしものに共感したわけではなくて、網がかかって畑のほうはよく見えないと思ったもので。これはたぶんセイヨウアブラナなのでしょうが、わざわざ栽培しているのだからたぶん無エルシン酸品種でキャノーラ油がつくられるのだろうと思われ。(知りませんけど)

  アブラナって英語だと "rapeseed" っていうんですかね? ナンカ物騒な名前。 Wikipedia <http://en.wikipedia.org/wiki/Rapeseed>

March25,2009AlbanyCA1849.52pm.jpg
2009年3月25日(水)18時49分52秒のスナッパー(小麦粉と片栗粉をまぶした)

  このsnapper はカナダ産です。Lucky に入っている魚屋さんで買いました。snapper は英和辞典を引くと a. ゴウシュウマダイ (=schnapper) 〔オーストラリアの豪州です・・・・・・豪州・ニュージーランド産〕、b. フエダイ〔メキシコ原産〕、c. アミキリ (bluefish) と書いてあります。なんだかよくわかりません。タイというよりはサバのように細長く、味はタラかまたはスズキのようでした(わけわかめ)。でも写真を見るとタイみたい。

  たぶんsnapper はWikipedia の "Lutjannidae" <http://en.wikipedia.org/wiki/Lutjanidae>

March25,2009AlbanyCA1856.30pm.jpg
2009年3月25日(水)18時56分30秒のスナッパー

  ツユと日本酒で和風のとろみに。

March25,2009AlbanyCA1921.14pm.jpg
2009年3月25日(水)19時21分04秒のスナッパーを食べたあとのサンフランシスコベイ

March25,2009AlbanyCA1921.22pm.jpg
2009年3月25日(水)19時21分22秒

March25,2009AlbanyCA1921.34pm.jpg
2009年3月25日(水)19時21分34秒

March25,2009AlbanyCA1921.44pm.jpg
2009年3月25日(水)19時21分44秒

March25,2009AlbanyCA1929.28pm.jpg
2009年3月25日(水)19時29分28秒

March25,2009AlbanyCA1929.48pm.jpg
2009年3月25日(水)19時29分48秒

 


nice!(2)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

March 27 『磁気睡眠と心理療法のルーツ』 From Mesmer to Freud: Magnetic Sleep and the Roots of Psychological Healing_(1993) by Adam Crabtree [擬似科学周辺]

March 27, 2009 (Friday)

   今日はモーリちゃんが小学校へ行く最後の日で、友だちを連れて2時前に戻ってくるのだけれど、部屋を片付けようとして本を片付けながら、やっぱりこれも書いておこう、とまだブログへの執着が断ち切れない自分がいます。

FromMesmertoFreud.jpg

Adam Crabtree.  From Mesmer to Freud: Magnetic Sleep and the Roots of Psychological Healing.  New Haven: Yale University Press, 1993.  x + 413pp. 

   1月の末頃届いた本だったと思われ。この本も図版がないです。禁欲的なほどです。装丁も、表紙のタイトルに見られる波打ったような文字の並びが章のタイトルに出てくるだけで、あとは366ページまでの本文のあとReferences (引用文献)が40ページもあり、びっしり文字で埋まっています。7ページのIndex 付き。

  今日的な意味での心理療法の始まりが1784年のアントン・メスメルによる磁気睡眠の発見だというのは、Henri Ellenberger の大著 Discovery of the Unconscious (1970) が歴史的に指摘し、跡付けたものだと思うのですが、この本はメスメリズムの喚起したさまざまな問題――多重人格や霊界の啓示なども含め――を広範な資料読解をもとにして論考したたいへんな労作だと見受けられます。

  えーと、いくつか例をあげると、前に言及したテーブル・ターニング問題(「March 4 メスメリズムからスピリチュアリズムへ(その2)――擬似科学をめぐって(25)  On Pseudosciences (25)」参照)。これはふつうスピリチュアリズムがらみで捉えられていますが歴史的にはその前に動物磁気との関係があったというようなことは書きました。で、この本の第12章(pp. 236-65) は "Table Turning: Speculations about Unconscious Mental Activity"(テーブル・ターニング――無意識の精神活動についての思索」)で、簡単な歴史的な解説の後に、"Explanations" がルル説明されています。五つあったそうです――

Five explanations of the phenomena predominated: they were the productions of departed sprits 〔死者の霊〕; they were the workings of the devil〔悪魔〕; they were simply due to fraud〔詐欺・イカサマ〕; they arose from delusion, hallucination, and self-deception〔幻覚・妄想・自己暗示〕; or they were produced by the force of a "fluid" such as electricity, the "odyle" of Reichenbach, or animal-magnetic fluid. (p. 239)

5番目のさまざまな流体のなかに電気やオドや動物磁気が並べられているのですが。

  同時代的にはない、他の説明として超能力みたいなのがのちには出てきて、5番目とあわさって、文学の方面で言うとSF的なるものの広がりの一端を担うのでしょうけれど、考えてみれば、ゴシック的な超自然のexplanation あるいは非-explanation とパラレルなところが、歴史的にはあるのかもね。フランケンシュタインあたりからはっきり出て、アメリカだとホーソーンやポーの短篇小説に見られるような科学ゴシック。

  『プレフォルストの女見霊者』を書いたユスティヌス・ケルナーについても詳しい記述があります(198から203ページ)。この人のドイツ語の本のタイトルを見てそうかな、とは思っていたのですが、この本の前からメスメリズムにケルナーは関わっているのですね。ただ体を消耗するからやめたほうがよい、と判断したのを、患者の女性フリードリケ(=女見霊者)の方から懇願されて磁気トランスを使ったのでした。フリードリケその他の被験者を経験することによって、ケルナーは "magnetic spiritism" 「磁気的交霊術/磁気的スピリティスム〔? スピリティスムと日本語で普通呼ばれるのはスピリチュアリズムがフランスで発展してアラン・カルデックみたいな人が『霊の書』とか書き、それが南米に伝播してたぶんブードゥーとかとも習合する、そういうフランス語のspiritisme の写しですし、英語の読みとしてはスピリティズムですけどあんまり聞かないですね。もっともドイツ語の訳なんだろうけど〕」 の理論を展開することになったそうです。善霊と悪霊が不断に闘争している霊界に、トランス状態の人間は参与するのだけれど、善霊のほうの影響を受けると "agato-magnetic"、悪霊のほうだと "demonic-magnetic" というのだとか。

  この悪霊の影響というのは昔風にいうと「憑依 possession」ですね。えーと、だから、ケルナーは歴史的な流れで言うと、憑依によって起こる病であるとか、悪魔祓いによる治療であるという、メスメルがキリスト教のガスナー神父を否定して「科学」のほうへ進んだ際に抹消ないし抑圧しようとしたらしいもの、それをあらためて出してきたということになります。

   ここんところは、「December 30-31 擬似科学と科学についての覚え書――擬似科学をめぐって(4)  On Pseudosciences (4) [短期集中 擬似科学 Pseudoscience]」でウィキペディアから引いた一節がかかわるところです。あらためて引いておきます。――

1775年、メスメルはミュンヘン科学アカデミーから、聖職者で信仰療法家のヨハン・ヨーゼフ・ガスナー(Johann Joseph Gassner, 1727年 - 1779年)の行った悪魔払いに関して、意見を求められた。ガスナーが信仰のせいだと言うのに対して、メスメルは、ガスナーの治療は彼が高度な動物磁気を持っていた結果であると答えた。アンリ・エランベルジュ(Henri Ellenberger)によると、メスメルの世俗的概念とガスナーの宗教的信念の対立は、ガスナーの活動の終了と力動精神医学(Dynamic psychiatry)の出現を運命づけたということである。

  で、このクラブツリーという人の本は、一直線にフロイトの力動心理学へむかうのではなくて、さまざまな周縁的ないし(切り捨てられた側から見れば)中心的な問題をとりあげるわけです。Part 1: Magnetic Sleep.  Part 2: Magnetic Medicine.  Part 3: The Magnetic Psyche.  Part 4: Psycholgical Healing.  最終の第4部は、人格乖離や第二の自我や二重意識や多重人格について19世紀末からのさまざまな議論が検討されます。たぶんフロイトにおいては、いろんな分裂やら乖離があってもそれは無意識の領域の問題であって、比喩的に言うと人間の意識という統一的なものがサーチライトをかざしてときおり無意識のさまざまな集合に光を当ててそれが我々の意識にのぼるので、分離したシステムは精神的なものであるにしても意識ではない、というところで落ち着くんじゃないかと思うのですが(比喩自体は359ページ)、多重人格とかってなかなか複雑ですよねえ。

  と世間話のようにして閉じて引っ越し箱にしまいます。

  


nice!(1)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

March 23 2009年3月23日のアルバニ(カリフォルニア)の空と力うどんと豚肉煮 [天気 weather]

March 23, 2009 (Monday)

   金曜日の早朝にモーリちゃんとその母はディズニーランドへ3泊4日のバス旅行に出かけたのだけれど、アッというまに日は過ぎて、もう帰宅の日を迎えたのでした。夕方6時過ぎとか言っていた。

  ちょっと力をつけようか、と正月用に買って冷凍したままになっていた、もとから冷凍のもちを、ナンカの太長うどんに入れてみることにした。朝から。

March23,2009AlbanyCA0858.12am.jpg
8時58分12秒

  これでもレンジの窓から見ていてあわてて取り出したのだが、急激にふくらんだあとふにゃ~んと薄っぺらい煎餅状にしぼんでしまった。

March23,2009AlbanyCA0858.40am.jpg
8時58分40秒のゴールデンゲートブリッジ

  気を取り直してベランダへ。太陽とシスコる(というのだそうです)。

March23,2009AlbanyCA0918.26am.jpg
9時18分26秒のちからうどん

  パリパリした感じを表現すべく、敢えて右上のもちの断片を残しました。

March23,2009AlbanyCA1011.48am.jpg
10時11分48秒

  何を晩飯につくろうか、と考えて、とりあえずたくさんある豚肉(たぶん1.5キロくらい)をひたすら煮て、その一部を使ってカレーライスをつくろうかなあと。

March23,2009AlbanyCA1336.38pm.jpg
13時36分38秒

March23,2009AlbanyCA1411.20pm.jpg
14時11分20秒

March23,2009AlbanyCA1507.32pm.jpg
15時7分32秒

  で、カレーを作っているうちにモーリちゃんたちが帰ってきた。

March23,2009AlbanyCA1859.16pm.jpg
2009年3月23日(月)18時59分16秒のギラギラ

March23,2009AlbanyCA1920.18pm.jpg
2009年3月23日(月)19時20分18秒のギラギラ

March23,2009AlbanyCA1920.30pm.jpg
2009年3月23日(月)19時20分30秒のギラギラ

March23,2009AlbanyCA1920.42pm.jpg
2009年3月23日(月)19時20分42秒

March23,2009AlbanyCA1933.34pm.jpg
2009年3月23日(月)19時33分34秒のギラギラ

  ディズニーランドについては・・・・・・誰か書く気はあるのであろうか? 自分は行ってないですし。その夜もその次の日もいろいろとふたりから話は聞かされたのですが、ひとつだけ・・・・・・

  中華モール「東太 (Pacific East)」の中にある旅行会社に申し込んだのだが、モーリちゃんの母が中国人のツアーで行くといったらアダルトスクールの人たちに受けていたそうである。で、ディズニーランドに着くまでにカリフォルニアの各地で参加者を拾っていったのだが、それがみんな 99 ランチ・マーケットだったそうです。あと中国・台湾の人たちは、カリフォルニアに住んでいる人たちだけでなく、本国から申し込んで来ている人たちもいるようでした。あ、面白い書き方ができなかったw


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

March 22 2009年3月22日のアルバニ(カリフォルニア)の夜7時の空と雲 [天気 weather]

March 22, 2009 (Sunday)

   一生懸命書いてなんとか時差を埋めようと思っていたのに、一日を二つに割ってどうする、え、どうする? と自問する今日この頃です。

  もくもくと。煙か雲のように。

March22,2009AlbanyCA1912.50pm.jpg
2009年3月22日(日)19時12分50秒のゴールデンゲートブリッジと沈もうとする夕日

  これはちょっと無理があることは承知で太陽にカメラを向けました。もう少し太陽周辺の光は白いです。で、以下ちょっと変化をとらえようとしてあまりとらえられてない写真を並べます。

    この日は先に書いたように(「March 22 2009年3月22日のアルバニ(カリフォルニア)の午後の空と雲」)、良く晴れて、でも風が冷たい一日でした。

 

⇒このあと19時15分30秒、16分18秒、17分36秒、18分20秒、19分10秒、20分10秒、同34秒、27分44秒、44分16秒、55分35秒の、いがいと単調な夕焼け空の写真も見る〔クリック〕?


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。