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August 30 OED のまとめ――ラインダンスとフォークダンス (3)  OED, QED: Line Dances and Folk (3) [スザンナ周辺]

August 30, 2008 (Saturday)

あ、またフォークダンスへの言及がなかった、と思いつつもつづきです。

Tiller Girls line up.jpg

The Tiller Girls at the London Palladium 1950 <http://www.tillergirls.com/Tiller_Page_2.htm>

辞書の見出しに出てくる順に並びなおすと、


1961     line dance, n.

1990     line dance, v.

1928     line dancer, n.

1930     line dancing, n.

で、オックスフォード英語大辞典の初例の順序で2番目の "line dancing" の記述から前回はだいぶ脱線してしまいましたが、 これの用例の最後は2001年で、 C. Glazebrook, Madolescents 64: "They've just got back from the stupid line dancing down the Labour Club." です。 "madolescents" なんて聞いたこともない言葉で、たぶん小説だろうな、とあたりをつけて調べてみると(ほんとうは本のOED の巻末のBibliography を見れば、書誌情報がある程度は得られるはずなのですが)、モーリちゃんの父の好きなWorlCat ではChrissie Glazebrook がロンドンの William Heinemann から2001年に出した小説で、 The Madolescents. ジャンル的には "Juvenile delinquents--Fiction."  初版のあとにいくつか版があり、ISBN は 0434008869 9780434008865 0434009857 9780434009855.  などの情報を得ました。Amazon.com では初版は絶版で、2002年にArrow という出版社から出た400ページのペーパーバックが売られています。イギリスの不良のお話のようです。ということで確認したのですが、思ったとおりに、これはクラブでの(自分で踊る)ラインダンスのことです。

さて、line dance ということばは見出し語 line dancing (正確に言うと、OED の初版に入れられた語彙でも2版で入れられた語彙でもなくて "NEW EDITION draft entry" という区分で入っているのですが――そしてそれは4つとも同様なのですが)の定義内で使われているとはいえ、OED の用例でいうと戦後に名詞・動詞ともに出てきます。

まず名詞のほうは 名詞のline + 名詞のdance で、先行する(earlier) LINE DANCER と LINE DANCING を参照と書かれています。定義は "Any of various dances, esp. folk or country dances, in which multiple participants are arranged in one or more lines."  (複数の参加者が1ないし2以上ののラインに並ぶさまざまなダンス、特にフォークダンスまたはカントリーダンス)と書かれています。 用例ですが、・・・・・・よくわからない。わからないのでおおむねそのまま書いてしまいます、ここは。 1961 T. Petrides & E. Petrides, Folk Dance of Greeks13: "Thrace and Macedonia. . . Hassapiko. . .  (Line dance)."  1968 B. R. Buckley in T. P Coffin, Our Living Traditions xii. 139: "Round-dance, square-dance, line-dance figures were all used in the play-party.  1988 P. Manuel Popular Musics Non-Western World (1990) v. 158: "Lebanese traditions such as the dabkah line dance."  2001 Billboard 4 Aug. 81/2: "What has taken the [honky-tonk] name are the meat market, Village People, rap music, fern country, line-dance bars. Given my druthers, I'm much more at home in the bare-bones, often rank-smelling alternative rooms."    フォークダンスから、最後の用例のクラブ(バー)でのラインダンスまであるというのはわかりますが、歴史的な展開はぜんぜんわかりません。

そして動詞のほうは、名詞の line + 動詞の dance ですけど、 "after LINE DANCE (n.), LINE DANCER (n.), LINE DANCING (n.)" というような感じで語源というか語の派生が書かれています(そんなに並べられても困るけどw)。要するに名詞のline dance、さらにその前からあった名詞のline dancer そして名詞のline dancing にしたがうかたちであとから出てきたのが動詞のline dance だと。定義は "To participate in a line dance" (ラインダンスに参加する)。で、用例は新しいです。 1990 のフロリダの St. Petersburg Times から "Hilda Hubble effortlessly line danced, holding her arms just so and gliding around the linoleum floor.  1993年のカナダの雑誌から "It is high noon on Friday and the class is packed. . .  But today isn't normal: we are here to line dance." という用例。2000年10月8日のWashington Post (電子版) も同じく金曜の夜の描写で "On Friday night, hundreds played pool, country line-danced and then watched five people go up against the horned and burly beasts."

以上が歴史原則を誇るOED の記述です。モーリちゃんの父の印象では、あんまり信用できないな、というのと、記述が不完全というのとあります。そもそも初例がほんとに歴史を正しく反映しているのかという疑問がある。New York Times に集中しているというのもなんだかあやしげだ。まあ、新聞は世の中のことばの使用をたぶんにストレートに反映しているというのはわかるけれど、New York Times のArchive がウェブに存在するようになったことと無関係なのだろうか。あまりにテキストが多くなって、古英語とか中英語の時代のように、限られた数の正典キャノンが徹底的に学者によって調べられるというような時代ではとうの昔になくなっているというのはわかるけれど、それこそリチャード・ブリッジマンみたいにパソコンは使わずにこつこつとカードやメモで築き上げられてきたのが、初版の企画から全巻完結までに50年を要したOED という辞書の伝統だと思っておったし、引用については適切でコンパクトで意味が通るように心がけられたと思うのだが。それでも、この4つのことばの記述には相互参照cross reference があるのだし、専門的な知性が表にだけでなく裏側にも働いていると信じよう。そうすると、やっぱり、名詞と動詞(句)の "line dance" の使用と、 "line dancer" "line dancing" の使用とのあいだには、意味上の関係はありながら、時間的な懸隔(あれ、ケンカクって変換しないの? 死後か?)、へだたりがある、というのがOED の教えるところ、ということになります。

Rockettes.jpg

The Radio City Rockettes

しつこいですが、あらためてよっつを並べてみます。(しつこいですが、頭の年号はあくまでもOEDの初例の年です)。

1928     line dancer, n.  "A person who participates in line dancing." (ラインダンシングに参加する人)

1930     line dancing, n. "The action or practice of performing a line dance or line dances."  (ラインダンスを演じる行為ないし実践)

1961     line dance, n. "Any of various dances, esp. folk or country dances, in which multiple participants are arranged in one or more lines."  (複数の参加者が1ないし2以上ののラインに並ぶさまざまなダンス、特にフォークダンスまたはカントリーダンス)

1990     line dance, v. "To participate in a line dance" (ラインダンスに参加する)

そうすると、"line dance" ということばが使われる前に、ことばとしてはあたかもそれの派生語であるかに思われる(これはモーリちゃんの父の感覚ですけれど) "line dancer" と "line dancing" があった。その1920年代の「ラインダンス」は、戦後に「ラインダンス」という言葉が意味するさまざまな踊りにおける「ラインダンス」のなかの、限定されたもの、つまり(そこまでOED は記述していないけれど用例や時代を考えれば)「横一列に並んだ踊り手たちが音楽に合わせて一斉に、振付けられたステップのパタンに従って踊る」タイプのラインダンスだった(ここで「」に引いた説明は『リーダーズ英和辞典』の "line dancing [dance]" の記述です。リーダーズではこの見出し語がリーダーズプラスで加わって、派生語としてハイフンでつないだ一語の "line-dance" (自動詞)、それと"line dancer" を定義なしで並べています。dance がブラケット [ ] に入っているということは line dancing = line dance という意味です。逆にいえば、リーダーズの記述は最近のカントリー的な line dance をカヴァーしていません)。

ま、そんなところです。そんなところがモーリちゃんの父に付け加えられる情報です。

ラインダンスとLinedance(もしくはLine Dance)にRockettにKickline」 (裏帳簿 2007.3.6)のコメントのなかで、松さん(このかたは「All About OSK #01 [ロケット] 」  〔NewOSK*fan magazine〕のまとまった記述をしているかただとお見受けします)が、『大辞泉』の「ラインダンス」の記述、「《和line+dance》レビューで、大勢の踊り子が1列に並んで脚の動きなど>をそろえて踊るダンス。◆英語ではprecision dance」に言及されています。アメリカのロケッツにならってつくられた日劇ダンシングチーム(NDT) の「ラインダンス」は日劇支配人だった秦豊吉によってつくられた言葉とされており、和製英語とされている。これについて勝手ながら思うことを述べます。

1920年代、1930年代に、アメリカで "line dancer" や "line dancing" という言葉があったことは明らかです。そしてそれは Tiller Girls や Rockettes についてまさに使われる言葉としてありました。

和製英語の定義は『広辞苑』だとこうです――「日本で(英語の単語を組み合せて)作った英語らしく聞える語。「オフィス-レディー」「ナイター」の類。

さて、OED を信じれば、line dance という名詞、動詞は戦後になって出てきます。だから、1920年代には、line dancing と呼ばれたけれども、line dance とは呼ばれなかったことになります。

では「ラインダンス」は和製英語だったのでしょうか。英語のほうでline dance が名詞になる、だからのちには和製英語じゃなくてほんとの英語になるけれど、それに先んじて日本人によってつくられた言葉だったのでしょうか。

類推的にモーリちゃんの父に考えられるのは skating とか figure skating です。"skate" という英単語は名詞としてはふつうは「スケート」の意味にはなりません、靴をさすのであって、行為としてのスケートは skatingです。ただしskate は、動詞としては「スケートをする」という意味になります。"figure skate" も「フィギュアスケート靴」の意味であり、行為・競技としての「フィギュアスケート」(もっともリーダーズ英和辞典は「フィギュアスケーティング」と訳してますけれど)は "figure skating" です。ただし比較的新しいことばとして動詞の "figure-skate" があり、その動詞よりも前から "figure skater" という名詞があります。

じゃあ、スケーティングが正しいので、スケートは和製英語だ、ということになるのでしょうか? 

自分の感覚ではなりません。

Tillers 1.jpeg

<http://www.tillergirls.com/Tiller_Girls_Page.htm>

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August 30 性と肉体的接触――ラインダンスとフォークダンス (4)  Gender and Physical Contact: Line Dances and Folk (4) [スザンナ周辺]

August 30, 2008 (Saturday)

Tiller Girls 1891 Oldest .jpg

The Tiller Girls (1891)  左から3人目は Madge Vernon、5人目は Bessie Cohen <http://www.tillergirls.com/Tiller_Page_2.htm>

   ラインダンスについては、"line dancing" にせよ "line dance" にせよ、アメリカ起源のことばではないかという感じが強いのですけれど、「横一列に並んだ踊り手たちが音楽に合わせて一斉に、振り付けられたステップのパタンに従って踊るラインダンス」にせよ「複数の踊り手がラインに並ぶさまざまなダンス、特にフォークダンスまたはカントリーダンス」にせよ、あるいは「同時に同じステップ・シークウェンスをラインに並んだ複数の踊り手が繰り返す振り付けられたダンス」にせよ(以上、順に、リーダーズ、OED、Wikipedia の主旨をまとめなおしたもので権威はありません)、アメリカでおそらく1920年代に "line dancing" や "line dancer" なる言葉が作られる以前から実態として存在したと想像されます。イギリスのTiller Girls や、Tiller Girls と相互に影響をあたえあったのだろうと考えられるフランスのカンカンとか、女性コーラスラインの踊りはあったわけでしょうから。

  で、ここで脚上げ問題に戻ることはせずに、もともと(1) で書こうとしていたことを、その後の考えも含めて、 忘れないうちにメモしておきます。

OED の "line dance" の記述にまったく欠けていて、Wikipedia の記述にあるのは、性差に無関係に並ぶ("without regard for the gender of the individuals")ということと、身体的接触がない("Line dancers are not in physical contact with each other")という点です。このふたつは冒頭のややアバウトな感じもありますが定義めいたところに書かれています。そうして、 "History and culture" の項では、歴史的な記述が、folk dance を引き合いに出してなされます。――

Line dance is sometimes thought of as originating in the Wild West. In fact, it has a much more diverse background. Many folk dances are danced in unison in a single, nonlinear "line", and often with a connection between dancers. The absence of a physical connection between dancers is a distinguishing feature of country western line dance.

そのあと、日本語のウィキペディアの「ラインダンス」とはちがって、古いところからのラインダンスの(といってもカントリーウェスタンとつながる1970年前後のディスコ時代からのですが)展開が、音楽との関係で書かれています。しかし、とりあえず今モーリちゃんの父に面白いのはこの性と肉体接触の問題です。訳します。

ラインダンスは、ときに、西部に起源をもつと考えられている。実は、もっとずっと幅広い背景を有している。多くのフォークダンスは、一本の、直線でない「ライン」で一斉に踊られるもので、しばしば踊り手同士の接触が存在する。踊り手同士の身体的接触の欠如はカントリーウェスタン系のラインダンスの際立った特徴である。

  まあ、言葉足らずといえば言葉足らずなので(ヒトのことは言えない)、 文意がよくわからない感じがなきにしもあらず。同じ動作を全員が行うという点でフォークダンスとの類似を見つつ、しかし体が触れ合わない、というところが違うということでしょうか。それと西部はどう関係するのかは不明。実際のところモーリちゃんの父には知識がありません。植民地時代のアメリカで、たとえばメイデイの祭りとかでフォークダンスを踊っていたのは知っています(見たんかい)。ただそれは旧世界からもってきた伝承の踊りでした。

  で、ここからモーリちゃんの父の妄想です。さて、フォークソングとフォークダンスとは違います。けれども、どちらも観念としては民衆のなかに育まれたものという感じがあります。歴史のない移民の国アメリカにはフォークソングもフォークダンスも、だから、実はなかった。スティーヴン・フォスターは、そういうアメリカにフォークソングの芽をまいた人でした。「June 22 おおカリフォルニア!(1) おおスザンナ! (1) Oh! California Oh! Susanna 」以来あれこれ書いてきたフォスターの初期のヒット作「おおスザンナ」は、ちょうどゴールドラッシュの時期と重なって、西部へ向かった人々の愛唱歌となり、また、スザンナポルカというフォークダンスのかたちで踊られたのでした。ま、ここまではほぼ妄想ではないですねw

  スザンナポルカの映像(August 14 スザンナ・ポルカ Susanna Polka)を探しているときに、多量に見つかったのが「おおスザンナ」のカントリー的なラインダンスの映像でした(August 15 おおスザンナ・ラインダンス Oh! Susanna Line Dance)。そこでは南部が西部へ転換し、Rednex の歌詞にいたっては、女が sweet cowboys を探して、一緒に踊ろうよ、と歌っているようでした(August 17 レッド・ネックスの「おおスザンナ」とウェスタン Rednex, "Oh Suzanna" and the Western)。この性差の問題については、たまたまSue さんが「おおスザンナ」を歌っているビデオをとりあげたとき (August 21)に "A Boy Named Sue" というジョニー・キャッシュの曲をたまたまとりあげましたが、それをタイトルとして カントリー・ミュージックにおける性差の問題を論じた論文集が出ていることを知りました――A Boy Named Sue: Gender and Country Music (University Press of Mississippi, 2002: ISBN 978-1578066780)。

  男性的なものであったウェスタンあるいはカウボーイを女がのっとること。あるいは男性性を女性化すること。あるいは男性と女性という区別をなくす(かのようにふるまう)こと。

  フォークダンスは、小学校を思い出しても、男と女の数を合わせて交互にもしくは向かい合って組んで踊ったような踊らなかったような(どっちなんじゃい)。あ、男子と女子の数があわないと女になる男や男になる女の子がいたような気もします。そして、手と手を絡ませるのでした(ははは)。そういう人間的エロスを排除した(と一見見える)のが、カントリーウェスタンラインダンスの特徴のようです。しかし個々人は同じ動きをするのでした。これはきわめて現代的な個の人間の状況が投影されているようないないような。

    OED を考察したいま、Wikipedia 的な、というか1970年代以降とりわけはやっているいまふうなラインダンスは、舞台上の line dancing から少なくとも言葉としては来ているのだろうな、と考えているのですが、フォークダンスと同様に、肉体的接触と性差問題で、ギャップがあるのでした(もっとも歌手のバックで踊るラインダンスとかは性を考えているように見えますけどね。あたりまえですが、男でも女でもどういう並びでもいいというようなのはあんまりないような・・・・・・あ、TRF が新しいのはそこだったのか。女だけのスーパーモンキーズはMAX として独立し、安室奈美恵が従えたバックダンサーたちは・・・・・覚えていませんw)。

    Tillers とか日本の歌劇団というのは、これはこれでジェンダーフリーのようなジェンダーフリーの正反対のような、不思議な世界ですね。そしてテンネンさんの鏡音レン歌による女性仇打ちソング(July 20 嗚呼スザンナ―― 「おおスザンナ」のあやふやな歌詞などのいろいろ の続き )。

    とまあ、ぜんぜんまとまっていませんけれど、ここまでの断片と見えた記事のつながりぐあいのメモでした。( ..)φメモメモメモ ブログ村 洋書・洋楽・映画の英語

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August 31 バイオリンのおおスザンナ [スザンナ周辺]

August 31, 2008 (Sunday)

    けっきょくのところ、「おおスザンナ」は歌詞がなくても愛されている。というか、タイトルと曲調だけでなんとなく伝わるものでいいのかもしれない。

  今日は~バイオリンの~おけいこですぅ~♪ (ケメかい)

まずはアメリカのエラちゃん。Ella plays Oh, Susana on violin. (2:08)  posted by "simoncarnal100"

つづいて同じくアメリカのブライスくんのピアノとシャロンさんのバイオリン。Bryce and Sharon Duet in Atascadero. (0:49)


"Oh Suzanna" posted by "bobdelfuego"

Atascadelo というのはカリフォルニア州南西部の小さな町です。

しかし、あいかわらずみなタイトルがまちまちで、しかもまちがっておる。それもまたいいのかもしれない(いいんか?)。


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September 3 エディソンズの「おおスザンナ」 "Oh Susanna" by Eddy Nelson and the Eddysons [スザンナ周辺]

September 03, 2008 (Wednesday)

    ジャケットはほんのちょっとサイケである。このジャケットを探して "Hip Tune" で検索したら、「もしかして :"Hip Turn"」? とのサジェスチョンが出た。ヒップである。

eddyson1.jpg

画像元― "Eddysons" 〔オランダ語なのでよくわからず〕

  オランダのマーケットプレース Marktplaats.nl に最近出た商品の説明(拡大できる画像付き)だと――

Hip Tune 67 - 7" inch by Eddy and the Eddysons
Label: Aktie Niet Roken 1967
Record is VG++ ATTENTION! This 45 is made of flexible vinyl. It can not be used for normal spinning.
Side A: Oh, so wrong
Side B: Oh, Suzanne

It's all about the first 5 seconds of Oh, so wrong. In my opinion this is the loudest bboybreak from our lowlands.
When you loop this beat it will blast your speakers!!!<http://www.marktplaats.nl/index.php?url=http%3A//cd-dvd.marktplaats.nl/vinyl-singles/188480874-hip-tune-67-7-inch-huge-dutch-break.html%3Fxref%3D1>

  レコードの仕様についてはよくわかりませが、たぶん日本でソノシートと呼んでいた薄いペラペラのレコードではないかと。曲についての説明はもっぱらA 面の "Oh So Wrong" についてで、最大音量のbboybreakといっているのはなんのことでしょう。bboy ってヒップホップみたいなものですか? break ってダンスじゃないのか。わからないです。lowlands は Netherlands を指して使われているのはわかります。しかし・・・・・・"Suzanne" じゃなくて "Susanna"だるが。

    Alex Gitlin のホームページ内に、Eddysons の系譜とくわしいディスコグラフィーがありました ("EDDYSONS")――

In 1966, a group called Eddy Nelson & Eddysons was formed in Rotterdam. After a few hits on Havoc, Eddy Ouwens left the group to work as a producer.   He produced Teach-In, Bolland & Bolland and The Shoes. He also made records as
Eddy Owens and Danny Mirror.  The other Eddysons were Fred de Groot (dr), Hans Schotel (b), Martin Achterberg (v,g,o) and Kees de Blois (g,v,s, solo by the name of Larry Cotton).  Also, Ed van de Bent and Ludwig Smit (both ex-Midnight Packet and later in Justice and Cosmic Dealer) were part of the group for a short period of time around 1969.
When Eddy Owens left the group in 1969, the name was changed into respectively: Purple Pillow (1969-1970), Jumbo (1970-1973) and Circus (1973-1977).  Kees de Blois was in Cosmic Dealer in 1973/74; Kees and Martin later formed The  Hudsons.

1967 Turn of the year/Love so devine				Action 1008
Oh Susanna/Oh so wrong [anti-smoking record, 400.000 exx] Meinsma
1968 Ups and downs/Our love is slipping away Havoc SH 145
Ups and downs/Sweet memories [England] Olga OLE 010
A face/I protect her from the rain Havoc SH 150
Watching the city/The evening of our date Havoc SH 151
1969 Baby you got to stay/Jenny Artichoke Havoc SH 155
A little miss understood/Spirit don't let me down Havoc SH 162
Cousin Pretty/Sad old song Havoc SH 166 
〔以下グループが変わっていくので略 <http://www.alexgitlin.com/eddysons.htm>〕
 

  ここで、ジャケット左下のバツがついている白いチョークみたいなのがタバコだとわかりました。禁煙レコードだったのね。じゃあんまりサイケじゃないか(笑)。hipのi の点が目玉になっているのくらいですか。ううむ。それにしても、どうしてanti-smoking だったのだろう。ヒップというのはヒッピーの語源になる「トンデル」「進んでる」「ナウい」(みんな日本語として死語か)の意味の俗語でしょうけど、タバコを許容しないのがヒップというメッセージもあるのかしら。ちょっと興味が。"exx" はexamples だから、40万枚つくってたとえばキャンペーン用に配布したというようなことなのでしょうか(ものすごい勝手な推測)。

  英語版のWikipedia では、このオランダの短命のグループ Eddysons を結成した中心メンバーのEddy Ouwens が項目として載っています(グループのほうはなし)。1946年ロッテルダム生まれ、別名Danny Mirror。1977年8月エルヴィス・プレスリーの死を悼んで"I Remember Elvis Presley" を発表、英国シングルチャートで最高4位、オランダ国内で1位。

  我ながらひっぱりました。ほんとうはもっとひっぱって別の曲や別のバンドについても書こうと思っていたのですが場をあらためます。ではYouTubeより、Eddy and the Eddysons で、"Oh Susanna" (1967)―― 


"Hip Tune 67" (2:35) posted by bassilvia (Netherlands) on July 13, 2008

  曲はザ・ナターシャ・セブンふうなのでした(違うか)。

   2分1秒くらいから20秒間、オランダ語で、化学成分その他、喫煙についてなにやら語っていますね。まさか「おおスザンナ」の選曲には、アメリカ南部経済を支えてきたタバコ産業についてのあてこすりがあるのかしら。"Oh S" であわしている A面の "Oh So Wrong" はやっぱりタバコすっちゃダメダメョという歌なのでしょうか。いっぽうオランダは主要生産国のひとつなのですね、量でいうと9位だけど――「主要生産国の国民一人当たりの生産量でみると順位は下記の通りに変わる。オランダが特に多いのは、多くが輸出に向けられるためである。(2004年)

  1. オランダ - 7,059本
  2. ロシア - 2,653本
  3. 大韓民国 - 2,623本
  4. ドイツ - 2,528本
  5. ウクライナ - 2,282本」 (Wikipedia 「喫煙」

   は、はなしが・・・・・・とんちんかんちん一休さん。

 


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September 4 ケージャンなおおスザンナじゃけん Cajun "Oh! Susanna" [スザンナ周辺]

September 04, 2008 (Thursday)

    ちょっと前に書いたかもしれませんが、カエル祭のレインはケージャンの町です。 Cajun は18世紀後半のフランス=インディアン戦争 the French and Indian War(これは文学作品だとクーパーの『モヒカン族の最後 The Last of the Mochicans 』の活劇の背景になっているし、ブラウンの『ウィーランド』でいろんなアメリカ独立前の戦争として言及される一つです)の結果として、カナダにいたフランス人たちが、フランス領だったルイジアナへ移ってきたことで生まれたエスニックグループです。カエル祭のレインは Acadia Parish のなかで第2の都市という記述があったけれど、Acadian がなまって Cajun になったという説がいちおう有力なのではないかと思われる。そもそもルイジアナとはフランス国王のルイ14世 (1638-1715) にちなむ名前なわけですが、1699年より仏領としてありました。それがフランス=インディアン戦争(って背景は英仏戦争なわけですが)に負けたフランスがまず東側を英国に、西側をスペインに譲渡する羽目になり、でも西側は1800年にフランスに戻るけどナポレオンはアメリカに売っちゃって、結局フランス領ルイジアナ(これは現在のルイジアナ州より広いのですけれど)を1803年に完全に失ないます(このへんの歴史と地図はWikipedia 英語の "Louisiana (New France)" あるいはフランス語の"Louisiane (Nouvelle-France)" 参照)。

    クレオールという、ルイジアナのエスニシティーに関わる概念もあるわけですけれど、クレオールの中の、カナダ系フランス人クレオールがケージャンじゃあないのかと思われますが自信はありません(興味がある方はとりあえずウィキペディアでもおひとつどうぞ「クレオール(ルイジアナ)」 「ケイジャン」)。 そして、「ケイジャン〈音楽)」も参照していただいて、YouTube 画像です。Cajun music は、アコーデオン(とバイオリン)を旋律楽器とするダンス音楽です〈少なくとももともとは)――


"Danse cajun" (3:47) posted by Jukkalex (France) on January 8, 2008

   「おおスザンナ」は1分足らずで別の曲になり、そこでフロアの映像も入ります。"Oh suzanna ! (D.P)
Elle descend de la montagne (D.P)
On danse cajun (P.André / A.Hervé)
"

  ---------------

    カリフォルニア時間9月4日午後10時。 ピート・シーガーの "Rainbow Quest" というテレビシリーズで、伝統的なCajunバンドと一緒に演奏している映像があったので貼ります。――


"Mamou Cajun Band" (1:57) posted by peglegsam on February 20, 2007

"Cyprien Landreneau, Adam Landreneau, and Revon Reed on Rainbow Quest with Pete Seeger (No. 25) "


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September 8 歌うカウボーイの「おおスザンナ」 (1936)  Oh, Susanna! (1936) by the Singing Cowboy [スザンナ周辺]

September 08, 2008 (Tuesday)

ohsusanna_lobby.jpg

from "Film Info - Oh, Susannna!" GeneAutry.com

  歌うカウボーイといえば、ジーン・オートリーである。英語版Wikipedia の "Singing cowboy" の項目は、歌うカウボーイの系譜の最初に ジョン・ウェインを置いてますけど、Gene Autry (1907-98) と Roy Rogers (1911-98) です。ロイ・ロジャーズはオートリーの映画会社との契約がこじれたときにピンチヒッター的に出て、あとを継ぐかたちで1940年代に人気者になるわけですけど、第一人者はジーン・オートリーだったのだと思います。オートリーの初期の映画に『おおスザンナ Oh, Susanna』 (1936) があって、これがシンギング・カウボーイの一番だと話はたいへん気持ち悪いくらいに美しいわけですけど、そうではありません。1935年の Melody Trail が最初のようです(くわしいフィルモグラフィーは、たとえばInternet Movie Database のGene Autry のページ)。そして、1936年初頭のオートリー主演の映画のタイトルが Singing Cowboy でした。そしてさらにそれから5作目、第1作から勘定すると10作目が(といっても2年目ですけど)Oh, Susanna! でした。

  歌うカウボーイについては、文章の執筆者と典拠が不明ですが、 「カウボーイアーティスト」と題する「goo 音楽」のページの記述をあえて引いておきたいと思います。――

カウボーイとは

19世紀――牛を追って長い道のりを移動しながら生活していたカウボーイは、夜になると牛たちを落ち着かせるかのように 歌っていた。トレイルを進みながら、あるいはキャンプファイアを囲みながら、長い夜の退屈しのぎに自分自身や仲間たちのために歌っていたのだ。 「Streets of Laredo」「The Dying Cowboy」のような定番のカウボーイ・ソングは今世紀に入ってからのものだが、実際は何世紀も前にアングロサクソンが歌っていた民謡の亡霊なのだ。ア メリカ人のカウボーイへの憧れと西部開拓の夢のお陰で、カウボーイたちの歌は1920年、30年代には流行の的となった。Carl Spragueのような初期のアーティストはかなり伝統的なスタイルだが、the Sons of the Pioneers やGene Autryのような後発アーティストは、キャンプファイアでの定番ソングをポップ・ソングに変えたのだ。1930年代に音声映画が始まると、歌うカウボーイたちは銀幕を走り抜けながら、より有名な存在になっていった。その中には女性も数人いて、最も有名なのは「I Want to be a Cowboy's Sweetheart」を歌ったPatsy Montanaであった。しかしながら、現在のカウボーイのトレンドは、Riders in the Skyのようなリバイバル・グループによってかすかに伝承されている、という状況だ。

  英語の記述としては、 Lillian Turner の "The Singing Cowboys: Real to Reel" という文章をいちばん下に引いておきます。

  で、シンギング・カウボーイ映画というのはウェスタンのミュージカル版という言い方もされるかもしれませんけど、それほど不自然に音楽がちりばめられていたりキャラクターが歌にあわせて踊りだすく(田森がいやがるようなかたちで)わけでもなく、わが小林旭のギターを抱いた渡り鳥シリーズの原型といった方がわかりやすいし近いのではないかと思います。

  物語のプロットとしては、あるコミュニティーによそ者としてやってきた主人公が、コミュニティーの人間関係を正し悪を解決してまた旅の空に去っていく、というような水戸黄門、シェーン・カム・バック的なロマンス系のようです。むろんそれ自体が西部劇のプロットであり、原型をたどるとジェームズ・フェニモア・クーパーの『皮脚絆物語 Leatherstocking Tales 』シリーズのナッティー・バンポーという、アメリカ人に訴える男の理想型ということになります。クーパーで考えると、男女のロマンスがメインのプロットだったり、土地争いがプロットだったり、戦争がプロットだったりして、そこにワキからからんでくる比較的マージナルな位置にいるキャラクター。(これは、一度いた土地に戻ってきて新たな問題を解決する、というような変形をすると、モーリちゃんの父の好きな昭和残侠伝などのやくざ映画のパタンになります、たぶん。)

  1936年の『おお、スザンナ!』 は、59分という短い映画で、たいへん凝縮されたかたちで物語が展開します(特に冒頭はすごい濃度。ま、わざわざ帽子をかぶらせて汽車からほっぽるところが不自然ですけどw)。――

"Oh, Susanna! 1/8 (1936)" posted by hollywoodclassics5 on July 29, 2008: "Fleeing the law, Wolf Benson hops on a train, throws Autry off, and assumes Autry's identity. Still posing as Autry he robs and kills Autry's friend Lee. When Autry is jailed, his friends Frog and the Professor break him out and the three head out to clear him of the murder charge."

  最初はオープニングと冒頭近くのBGM だけなのですけれど、「おおスザンナ」を歌うシーンも出てきます。短いですし、オートリーじゃないですけど(2:30ぐらいのところから)――


"Oh, Susanna! 5/8 (1936)"

  で、この映画の最後はけしからんことにキスシーンでフェードアウトするのですが、どうやらその後次第にジーン・オートリーはカウボーイはかくあるべし、というような考えを抱いていくようになったようなのでした。

あと1回だけつづきます。

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参考urls―

"Old Time Country and Western Music Souvenirs and Song Books" the-forum On-Line Antiques Mall <http://www.the-forum.com/EPHEMERA/country1.htm> 〔ソングブックの表紙画とソングナンバー一覧。1930年代に「おおスザンナ」がカントリー&ウェスタンに(も)入っていることがわかります、たぶん〕

Gene Autry Official Website and Centennial 1907-2007 <http://www.geneautry.com/home.php>

Lillian Turner, "The Singing Cowboys: Real to Reel" (Points West Article: 1998 Spring Issue) Points West Online <http://www.bbhc.org/pointswest/PWArticle.cfm?ArticleID=20> :

Cowboys sang songs - popular songs of their day, hymns, and songs that grew out of their own work experiences. As cowboys drifted from one range to another, they picked up and sang songs from all parts of the country. For a time, it seemed that only cowboys were interested in their songs.

By the turn of the century, Wild West shows, western novels, and stage productions had helped to popularize the cowboy. Tin Pan Alley determined to capitalize on this phenomenon with its versions of cowboy music. In 1905 songwriters Egbert Van Alstyne and Harry Hiram Williams, following the success of their "In the Shade of the Old Apple Tree," combined their talents to produce "Cheyenne," hoping to have a cowboy love song moneymaker. When the cylinder recording by Billy Murray was released in 1906, "Cheyenne" became the first "cowboy song" to be a national hit.

Although N. Howard "Jack" Thorp (1908) and John A. Lomax (1910) had both published collections of traditional cowboy songs, what most Americans were familiar with were the songs they purchased as sheet music or heard on vaudeville stages, in music halls, or on recordings. It was not until 1925 that a "real" cowboy recorded a "real" cowboy song. Carl T. Sprague's recording of Montana poet D.J. O'Malley's "When the Work's All Done This Fall" sold 900,000 copies. He was followed soon by Jules Verne Allen, Harry "Haywire Mac" McClintock, Charles Nabell, and Ken Maynard.

By the 1920s the new medium of radio also provided Americans with more music and the opportunity for many of them to perform as well. Singers with a modest degree of talent could often secure a 15-minute slot once a week on a local radio station in need of programming.

America's first "singing cowboy" to broadcast nationally began his singing career on WEAF, an NBC station in New York City, in 1926. John I. White was a Washington, D.C. native who fell in love with cowboy songs when visiting cousins in Arizona. Choosing to sing those songs, he was called "The Lonesome Cowboy" after moving to station WOR. In 1930 he was hired as a singer to appear on NBC's new weekly coast-to-coast radio drama called "Death Valley Days" sponsored by Pacific Coast Borax Company. His published folio of cowboy songs could be obtained by sending in a boxtop from one of his sponsor's products.

Silent western movies had been entertaining the American public for over 25 years. In early 1929 sound came to westerns with the release of In Old Arizona. Shortly after, the "singing cowboy" was born.

Horseman, trick rider, and silent film star Ken Maynard that year added to his silver screen credits his talents as musician and singer in the 1929 release, The Wagon Master. For his first "singing cowboy" role, Maynard chose to sing traditional cowboy songs, "The Lone Star Trail" and "The Cowboy's Lament."

Perhaps Ken Maynard's greatest contribution to the "singing cowboy" movies was his introduction of radio and recording artist Gene Autry to the silver screen in Maynard's In Old Santa Fe (1934).

Gene Autry began performing on radio station KVOO in Tulsa, Oklahoma, and was cutting records for several labels when he was hired by Sears Roebuck in 1931 to appear on their Chicago station WLS. Autry was given his own program as "Oklahoma's Singing Cowboy" and began appearing on the "National Barn Dance." His 1931 recording of "That Silver Haired Daddy of Mine" was the first million-selling record.

Sears, Roebuck and Co. helped build Autry's popularity through the catalog sale of his song folios, records, and a $9.98 Gene Autry Roundup guitar.

When Gene Autry received a call from Hollywood, he took with him his accordionist and friend Smiley Burnette. After his debut in Ken Maynard films, Autry, along with "sidekick" Burnette, starred in a 1935 serial called Phantom Empire before being given the lead in Tumbling Tumbleweeds.

The singing cowboy rage had begun.

Gene Autry's almost overnight success as a singing cowboy star had studios scrambling to find and develop their own singing cowboys: Dick Foran, Fred Scott, Bob Allen, Ray Whitley, Smith Ballew, Bob Baker, Jack Randall, George Houston, Gene Austin, Donald Grayson. [. . .]

 

 


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September 10 小林旭と歌うカウボーイ Kobayashi Akira and the Singing Cowboy [スザンナ周辺]

September 10, 2008 (Wednesday)

    おとといの「September 8 歌うカウボーイの「おおスザンナ」 (1936)  Oh, Susanna! (1936) by the Singing Cowboy」と題した記事で、「オートリーの初期の映画に『おおスザンナ Oh, Susanna』 (1936) があって、これがシンギング・カウボーイの一番だと話はたいへん気持ち悪いくらいに美しいわけですけど」と書きました。もうひとつ加えると、シンギング・カウボーイの携行する楽器がギターじゃなくてバンジョーだったら、すげー気持ち悪いくらいに美しいわけです。それでも、フォスターのミンストレルの「おおスザンナ」が換骨奪胎、白人化され、同時にカウボーイもスパニッシュ・メキシカンからアングロ・サクソン化されて、ギターを持った渡り鳥カウボーイのイメジに「おおスザンナ」が入り込んでいると夢想するのは楽しいことのような気もしなくもないような気がします。

  それから、 やはりおとといの記事で「シンギング・カウボーイ映画というのはウェスタンのミュージカル版という言い方もされるかもしれませんけど、それほど不自然に音楽がちりばめられていたり キャラクターが歌にあわせて踊りだす[・・・・・・]わけでもなく、わが小林旭のギターを抱いた渡り鳥シリーズの原型といった方がわか りやすいし近いのではないかと思います」と適当なことを調子に乗って書きました。歌うカウボーイはオトリーやロイ・ロジャーズだけではなくてたくさんいるし、そんなに観ているわけではないので、音楽の散らされ方について、断言はできません。小林旭についてはきっと誰かが書いているだろうな、と思って検索しました。次の、『西部劇私的博物館』のなかの「西部劇シネマ館」のなかの「大草原の渡り鳥(1960年・日活)」の記事は、たいへん共感するところ大きかったです。――

 渡り鳥シリーズは全部で8作(9作目に『渡り鳥故郷へ帰る』があるが、主人公の名前もキャラクターも、物語の基本構造すら前8作と異なっているので、私としてはシリーズとして認めていない)ありますが、『大草原の渡り鳥』はシリーズ最高傑作であり、西部劇に一番近い構造を持っています。それは、内容だけでなく、北海道を舞台とした環境与件の効果も大きかったと考えています。

 冒頭、主題歌の流れるタイトル画面で、主人公は馬にまたがり、鞍の後に幼い少年を乗せています。岩だらけの山の尾根を馬で行く『口笛の流れる港町』、広大な丘陵地帯を馬車が走る『大海原を行く渡り鳥』でも西部劇タッチはみられましたが、主人公の登場の仕方だけでなく、そのロングショットにみられる空間的スケールの拡がりは、北海道の広大な自然を背景とした効果であり、他の作品には見られないものでした。
   

 湖のほとりにあるアイヌ部落は、一見してインディアン居留地風であり、アイヌの古老が話す言葉はアイヌ語で、字幕が出る凝りようです。同じ時期の西部劇に、インディアン語の会話に英語の字幕が出る作品があったでしょうか? 先住民族に対する表現は、本場西部劇よりすすんでいたと思います。

〔中略〕
 
 渡り鳥シリーズは、西部劇のパロディというより、私はシンギング・カウボーイだと考えています。主人公の格好を見てください。肩にいっぱいフリルのついた皮ジャンパーや、首に巻いた赤いスカーフなんて、ロイ・ロジャースやジーン・オートリーの衣装です。ジョン・ウェインやクリント・イーストウッドは間違ったってこんな格好はしないでしょう。
 主題歌を歌いながら主人公が現れ、劇中でもギターを弾きながら2~3曲歌います。ヒロインや子どもが聴き惚れる。渡り鳥の場合、悪党連中も聴き惚れてましたが。
 この作品でもアキラ(小林旭)は、主題歌の他に「アキラのソーラン節」と「ピリカ、ピリカ」を歌っています。
 主人公は、どんな悪人であっても殺すことはありません。相手の拳銃をハジキ飛ばすか、利き腕を射ち抜くぐらいですね。渡り鳥では、アキラの代わりにジョーさん(宍戸錠)が悪党を射ち殺して、警察に行きます。この作品でも、自分が殺されかけた恨みをはらすため、逃げて行く高堂を呼びとめます。そして「丸腰の相手は射てねえ」と自分の拳銃を高堂に投げてやり、高堂が銃を拾うと、滝が自分の拳銃を政に投げ、それを受け取った政が高堂を倒します。西部劇ではお馴染みのボーダー・シフトというガンプレイで、アキラが投げた銃を、ワン・モーションで発射するジョーのガンさばきは見事でしたよ。

シンギング・カウボーイがキスする相手は愛馬だけなのと同じように、渡り鳥もヒロインに対してキスはおろか、手さえ握らずに別れるんですね。それもキザな言葉を残して……

この作品では、ヒロインの言葉が泣かせます。

順子「あの子(信夫)には何もおっしゃらないの」

滝 「言えばツライこともある」

順子「じゃあ、私にも何もおっしゃらないで。私、このままじっとしています。何かおっしゃられると、私、とってもツライ」

滝は、背中をむけている順子に、何も言わずに去っていくんですよ。

  私もノスタル爺さんのようなこういう文章を書きたい、気もします。

   このページは「小林旭+ジーン・オートリー」の検索で少数ヒットするなかに見つかったのですが、そのまえについ「小林旭+歌うカウボーイ」で検索して、いろいろ読む羽目になったモーリちゃんの父であり、そのこともさっき書こうとしたのですが、火狐が動かなくなって、消えてしまいました(涙)。いずれその小難しい西部劇論の話はどこかでまた(天命だと信じて・・・・・・また動作停止したらやめます)。

   あ、でもコメントなしでただ並べておきます(むつかしくないのを)。

短歌の花だより: 四国、よいとこ 233 高知市 旭さん、ルリ子さんの ...

(カウボーイのような帽子をかぶった長身の青年が、ギターと拳銃を持って馬で旅行しているという設定がすごい) ... 小林旭ののびやかに歌う「赤い夕陽よ…」が流れ、夕焼けに包まれた馬と小林旭の映像が涙が出るほどいいのです). 「赤い夕陽よ

ちあきの掲示板 02年02月

未発売モノが何曲かあって、そのうちの1曲「地底の歌」には、「美空ひばりのうたう 唄」「小林旭うたう唄」なんて ... その主演した映画の主題歌とヒット曲集の3枚目のジャケット写真は、これぞ日本のシンギング・カウボーイと呼ぶに相応しい。 ...

そして、ぜひ紹介したかったのが、今年で創業49年目を迎える札幌市西区のジャズ・バー Rondo の2代目マスターの映画コーナーの鎌田賛太郎の映画コーナー 第7回「永遠のガンマン大連合! これを聴かずに死ねるか!!」 2002/04/30開催です。マスターは次のような文章で、西部劇における音楽を紹介していきます。――

 19世紀、アメリカ西部のカウボーイたちは牛を追い、長い道のりを移動しながら生活した。夜になると牛を落ち着かせるかのように、あるいはキャンプファ イアを囲み、長い夜の退屈しのぎに歌ったものだ。従って開拓時代の西部は実に歌に溢れた世界であり、西部劇というジャンルは歌とかけ離れては成り立ち得な いものだといえるだろう。今日は西部劇の美しい音楽を聴いていただきたい。
 さて、西部劇といえばジョン・フォードに尽きるだろう。今日は何本か紹介したいが、まず騎兵隊3部作といわれる中の一本「リオ・グランデの砦」から聴い てみたい。もちろん主演はジョン・ウエイン、別居中の妻をモーリン・オハラが演じている。横暴なアパッチ族との戦いの中で、ウエインの息子が部隊に入隊し てくる。ウエインの見せる、父親と上官、両面の表情が何とも素晴らしい。歌のシーンが多く、しみじみとした気分が横溢するこの作品には、サンズ・オブ・パ イオニアーズという男性ボーカルグループが連隊歌手として登場している(メンバーの一人がフォードの娘婿だ)。上官に歌を捧げるシーンを聴いてみよう。
1「リオ・グランデの砦」(50年)歌サンズ・オブ・パイオニアーズ 音楽ヴィクター・ヤング

  カウボーイ自身と音楽の親密さはおとといの記事でもふれましたが、それと背景に音楽があるというはいちおう別なのでしょうけれど、マスターは、シンギング・カウボーイというのでなくて、西部劇映画のガンマンと音楽について語り、そのなかでプレスリーや小林旭もあげます――

 エルビス・プレスリーも「燃える平原児」という西部劇に出演している。監督は名手ドン・シーゲル。プレスリー演じるペイサーは牧場主とインディアンの間 に生まれた混血児で、白人とインディアンの戦いに巻き込まれ、どちらにつくべきか激しく揺れ動いていくことになる。原題の「FLAMING STAR」は、燃える星の意。インディアンの言い伝えで、人は死ぬときに激しく燃える星を見るらしい。「燃える星よ、どうか俺に輝かないでくれ」と歌うプ レスリーの主題歌、それに続く歌のシーンをみよう。それにしても、プレスリーはシャツの襟を立て、カウボーイ姿も実に様になっていた。
5「燃える平原児」(60年)歌エルビス・プレスリー

 日本のガンマンも一人紹介しよう。小林旭だ。60年代の日活の渡り鳥シリーズは、ギターをしょった旭演じる滝伸次が日本の各地を訪れ、土地や店を奪おう とする悪漢を倒し、純情な娘の慕情を断ち切って去って行く、というもので、宍戸錠との荒唐無稽な掛け合いも呼び物のひとつだった。渡り鳥シリーズは全部で 9作が作られ、5作目の「大草原の渡り鳥」で、ついに西部劇に到達する。舞台は北海道の釧路、摩周湖。旭が、母を捜す子供を連れ、馬に乗って登場する冒頭 からわくわくしよう。
 ところで、最近大滝詠一監修で旭のCDが4枚発売された。その名も「アキラ1」「アキラ2」「アキラ3」「アキラ4」。どれも傑作だゾ。
6「大草原の渡り鳥」(60年)歌 小林旭

    さて、映像ですけれども、日本語では見つからないページにいちばんきれいなのがありました。――


"Plains Wanderer Trailer (in Japanese)" (3:44) posted by JapanMovies

  "trailer" というのは予告編のことです。投稿者による英語の解説――

1960, 83 min., 35mm, color. Directed by Buichi Saito. With Akira Kobayashi, Ruriko Asaoka, Jo Shishido.

In the nine-part Wanderer series (1959-1962), Akira Kobayashi plays Taki, a man with the looks of a Western hero--from a horse to fringe, a guitar and even a trusty bullwhip--traveling on Japan's back roads. Taki involves himself in a fight alongside the Ainu (Japan's aborigines) against a developer who wants to turn their land into an airstrip. In addition to having the landowner's niece fall in love with him, Taki finds a rival then an ally in Masa (Shishido) as they exchange snappy banter and slick moves throughout the film. 

   次のは短い映像で、『赤い夕日の渡り鳥』 (1960) から、キザになりそこねたセリフ (0:38) ――

「渡り者なんか頼りにしちゃいけねえよ。俺よりほかにもっとまともな男がいるさ。
人に頼られて、それがいやでまた流れる。そこでまた人に頼られる。それが渡り鳥の悲しささ。」

そして、1959年発売の「ギターを持った渡り鳥」――

(3:45) posted by doramogera

 

    燃える男の赤いトラクター♪ というのは、愛馬のかわりなのでしょうね――

「♪燃える男の赤いトラクター♪」 (0:53) posted by gokurakurider

 

風に逆らう俺の気持ちを知っているのか、赤いトラクタ-
燃える男の赤いトラクター それがお前だぜ、いつも仲間だぜ
さあ行こう、さあ行こう
地平線に立つものは 俺たちふたりじゃないか

-----------------------

『西部劇私的博物館』 <http://www2u.biglobe.ne.jp/~kazu60/museum/index.htm> 〔「西部劇好きのノスタル爺が、折に触れて収集した西部劇に関する我楽多で~す」〕


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September 17 ストラムスティックなおおスザンナ Oh! Susanna Played with a Strumstick [スザンナ周辺]

September 17, 2008 (Wednesday)

    strumstick の "strum" というのは「弦をかき鳴らす」 というような意味があるのだけれど、どうも調べてみると、Appalachian dulcimer、つまり、ヨーロッパに古くからあって、ピアノやクラヴィコードの前身とされるダルシマーが、アメリカ南部のアパラチア地方でヘンなぐあいに発展した民族楽器のひとつのブランド名のようです。もう少し話をわかりやすくします。アパラチア・ダルシマーというのはヨーロッパのダルシマーとは形状がかなり異なっています。

    古いダルシマーがなんで弦楽器なのにピアノに発展していくかというと、ハンマーで弦を叩くからです。えーと、"hammered dulcimer" で画像検索とかすると出てくると思いますが、その古いダルシマーを演奏しているアーカンソーのDennis Lee さんのページからダルシマーについて説明している "About the Hammered Dulcimer"の説明を借りれば――

The word "Dulcimer" comes from the Latin words "Dulcis" for sweet, and "Melos" for song. The hammered dulcimer is an ancient instrument and is even mentioned in the Bible; Daniel 3 Verse 10.

It is played by striking the strings with small wooden mallets, called "hammers". Historically it precedes the piano, inside of which the strings are struck by small padded "hammers".

http://www.dennisleemusic.com/graphics/dulcimer_line.gif

 ということになります。<http://www.dennisleemusic.com/dulcimer.html>

   だけど、アパラチアン・ダルシマーはこれと違ってもはやアメリカの民族楽器とされているもので、"mountain dulcimer" とも呼ばれるもの。形はヴァイオリンを細長く引き伸ばしたようなものから、シャモジかウクレレを細長く引き伸ばしたようなものまでいろんな種類があり、弦は3ないし4本で、膝に乗せてつまびきます。スコットランド、アイルランド系で入ってきたもののようで、おそらくもともとはバイオリンのボディーをピーナツ状にダブらせたような、というか、8の字型というか、こういうやつに近かったのでしょうけれど――

AppalacianDulcimer_rlsmith.jpg

via "Folk World Article T:-)M's Night Shift"

 

  North Georgia Foothills Dulcimer Association という団体の人たちの抱えているダルシマーもこのタイプです("hammered dulcimer" もカバーしているようではありますが)。

    で、ですが、このアパラチアン・ダルシマーを原型とした現代の弦楽器がいくつかあって、"Dulcitar," "pickin' stick," "Pick 'n' Stick," "strumbly," "sweetstick," "Strumstick" などです。画像的には「アパラチアン・ダルシマーにaddicted かも」のアーカンソーの山中にお住まいの収集家のWendell さんの"Home Page of Dulciaddict" を参照(音源へのリンク付)。

  なんかダルシマーと比べると、こと(筝のこと)と大正琴くらいに隔たっているような気もしますが・・・・・・。

  で、Strumstick というのはBob McNally という人(この人は存命です⇒マクナリーおじさんの映像(2:23))がつくったもので、McNally 社の商品名です。日本でも話題になっている(た)(?) みたい――

STRUMSTICKは楽しい!かも

魔法使いの杖?ukuleleな研究
ukuleleに関する様々な研究レポート

そして、McNally のホームページ――<http://www.strumstick.com/>

    と予備知識をおたがいに得たところで、カナダのモントリオールのルー・ダイトさんによるストラムスティックの演奏です――


"Oh Susanna (strumstick tutorial #5)" (3:35) posted by "lewdite" on March 7, 2008

note: the = sign means slide

0-1=2---4----4-5-4--2---0---0-1=2-2--1-- 0--1
I come from Alabama with a banjo on my knee
0--1=2----4--4----5-4-2-0--0--1=2--2---1 --1--0
I'm going to Louisianna, my true love for to see
0-1=2-----4---4----5----4--2--0---0--1=2 --2----1--0--1
It rained all night the day I left, the weather it was dry
0--1=2----4---4-5---4---2----0----0--1=2 --2----1---1----0
The sun so hot I froze to death, Susanna don't you cry.
3---3----5---5---5---4----4----2---0---1
Oh susanna, oh don't you cry for me
0--1=2---4---4--5--4--2--0--0-1=2-2--1-- -1---0
I come from Alabama with a banjo on my knee.

------------------

"Hammered dulcimer," wikipedia <https://secure.wikimedia.org/wikipedia/en/wiki/Hammered_dulcimer>

"Appalacian dulcimer," wikipedia <https://secure.wikimedia.org/wikipedia/en/wiki/Appalachian_dulcimer>

"Gillygaloo - The Instruments We Play" Grownup-Friendly Music for Kids! <http://www.gillygaloo.net/docs/08_instr.htm> 〔このなかにある昔のアパラチアン・ダルシマーの演奏写真を見ると、バチというかピックみたいなもので弾いているように見えます〕

Kevin C. Neece, "This is NOT a Strum Stick!" 〔映画・音楽評論をおこなっているアメリカの人のYouTubeにおける講釈。Neece さんがあげるさまざまな類似楽器のリストをコメントとともに下に引いておきます〕


"This is NOT a Strumstick" (8:31) posted on October 30, 2007
Introducing the newly dubbed "Notastrumstick"! This is all about why I use this odd name to refer to my instrument. Speaking of odd names, here's a list of other 3-string, diatonically fretted, guitar-like instruments:

1.Schneider Strum Stick http://members.aol.com/GeneNancy2/boo...

2.The Phoenix Shop Strum Stick http://www.nepenthebigsur.com/phoenix...

3.Horlocker Strum Stick http://www.smokeymountaindulcimer.com...

4.Boehme or Boing Strumstick http://www.boehmemusic.com/en/string-...

5.PicStrum http://www.picstrum.co.uk/

6.Longneck http://home.centurytel.net/Dulciaddic...

7.Q'Stick http://home.centurytel.net/Dulciaddic...

8.A'Stick http://home.centurytel.net/Dulciaddic...

9.Another "A Stick" http://www.everythingdulcimer.com/pho...

10.The Woodrow http://www.thewoodrow.com/

11.SweetStick http://www.moleintheground.com/index.htm

12.Olympia Walkabout Dulcimer http://www.walkaboutdulcimer.com/

13.Dove Creek Pickin' Stick http://dovecreekdulcimer.com/?page=ps

14.McCafferty Pick n' Stick http://www.mccaffertydulcimers.com/pn...

15.Mandilon-Size Pickin' Stick (Dulcimer House) http://www.dulcimerhouse.com/LS%20Pkn...

16.Dizzi Dulcimer Piknstick http://www.dizzi.co.uk/page28.php?vie...

17.Strumalong Dulcimer http://www.waringmusic.com/waring_har...

18.Bleach Bottle Banjo http://www.waringmusic.com/bleach_bot...

19.Dulcijo -- 3-string Dulcimer/Banjo http://www.ezfolk.com/dulcijo/index.html

20.Electric Firestick (Horlocker/Smokey Mountain) http://www.smokeymountaindulcimer.com...

21.Strummer from Down Under http://www.jupitercreekmusic.com/sdu....

22.Blue Ridge Banjimer http://meadows-music.com/banjimer.htm

23.Reed Mountain Banjimer (2 Designs) http://www.artfolk.net/banjimers1.htm

24.Dulcitar (Just One of MANY) http://cgi.ebay.com/3-string-cigar-bo...

25.New Era Treasures Dulcimer Banjo (4-string diatonic) http://cgi.ebay.com/AWESOME-NEW-DULCI...

26.Plans for Another Design http://www.donsplans.com/html/dulcime... (Scroll down a bit to the Stick Dulcimer)

27.Baglama in Strumstick Mode http://www.youtube.com/watch?v=W5nh6z...

28.Strumbly http://www.heritage-music.net/servlet... North Art Heritage Music

29.Stick Dulcimer (Acoustic and Electric) http://www.michaeljking.com/stick_dul...

30.TinGuitar's Stick Dulcimer (Acoustic) http://www.tinguitar.com/dulcimers

31. TinGuitar's Stick Dulcimer (Electric) http://www.tinguitar.com/electric

32.Tick Ridge Electric Stick http://user.mc.net/~bpentprs/tickridg...

I've tried to include all these names as tags, but they won't all fit! Here, by the way, is where the Notastrumstick came from: http://www.smokeymountaindulcimer.com OR http://stores.ebay.com/
Smokey-Mountain-Music-Works.

 


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September 17 アパラチアン・ダルシマーなおおスザンナ Oh! Susanna Played with Appalathian Dulcimer [スザンナ周辺]

September 17, 2008 (Wednesday)

   アパラチアン・ダルシマーを使った「おおスザンナ」の映像があったので、紹介したいと思いますが、その前に、アパラチアン・ダルシマーについて、あれこれと解説ページをリンクしておきます。――

☆柘植元一 「アパラチアン・ダルシマー――北アメリカのコト」 ヤマハおんがく世界めぐり 北アメリカ(2) <http://www2.yamaha.co.jp/u/world/index46.html> ――「この楽器はコト(ないしツィター)の一種ですが、打弦楽器の「ダルシマー」とは別物で、撥弦楽器」であることが指摘され、以下のような説明があります(一部)――

製の共鳴胴は一見、だるま船のように見えますが、上か ら眺めると、へちまのような(あるいは「8」の字を上下に引き延ばしたような)形を呈しています。全長は約75~90センチメートル、幅のサイズは個々の 楽器によってさまざまです。この共鳴胴の腹面の中央にフレットがついた指盤がとりつけられており、その一方の先端はちょうどヴァイオリンの渦巻と糸蔵と糸 巻の部分に相当する装置になっています。通常、三~四本の金属弦が張ってあります。奏者は楽器を膝の上に水平に置いてかまえ、左手で弦を押さえ、右手に もった小さなピック(あるいは複数の指につけた義爪)で弦を掻き鳴らします。

の楽器の祖先は北ヨーロッパのツィター(スウェーデン のホンメルやノルウェイのランゲレイク、ドイツのシャイトホルトなど)で、これらのモデルは十八世紀末にはアメリカに存在していました。しかし、今日のアパラチアン・ダルシマーそのものが誕生したのは恐らく十九世紀末頃です。

十世紀の四十年代~五十年代の「フォークミュージック・リヴァィヴァル」の動きの中で、アパラチアン・ダルシマーは一時さかんになりました。正真正銘の「アメリカ生まれ」の民俗楽器と見なされたからです。

の楽器で奏でられる音楽は、もっぱらアングロ=アメリカンの音楽で、民謡やバラッドや舞曲がその主要なレパートリーです。〔以下略〕

☆立命館大学アート・リサーチセンター/アメリカンフォークソング資料保存プロジェクト 「アメリカの民俗楽器 (2)」 <http://www.arc.ritsumei.ac.jp/folksong/inst/003.html>――ハンマー・ダルシマーと並べて、まったく関係のない楽器で、ドイツ系の移民によるものが起源との説明をしています。――

アパラチアン・ダルシマー Appalachian dulcimer

アパラチアン・ダルシマーは、アメリカ東部のアパラチア山脈地域で発達したアメリカ特有の弦楽器だ。マウンテン・ダルシマー、ケンタッキー・ダルシマーとも呼ばれる。その原型と考えられる楽器は、ドイツ、スイス、ノルウェーなどに見られるが、ペンシルヴァニアのドイツ人コミュニティーで使われていた同種の楽器が、アパラチアン・ダルシマーの直接の祖先と考えられている。 しかし、その起源にもかかわらず、アパラチアン・ダルシマーは、イギリス系アメリカ人の音楽に使われる 楽器だ。イギリス系アメリカ人は、バンジョーをアフリカ奴隷から取り入れたように、ドイツ起源の楽器を自分達の民俗音楽に取り入れた。 彼らの民俗音楽 は、祖国イギリスから持ち込んだものと、新大陸で吸収したものとを融合することによって発展していったといえる。
基本的に、アパラチアン・ダルシマー(写真原典へのリンク) は細長い胴を持ち、その長さいっぱいに細長い板(指板)が張られ、その上に2本から多くて8本の弦が張られている。現在一般的なのは3―4本だ。胴の形 は様々だが、最もよく見られるのは真中がくびれた、8の字を引き伸ばしたような形か楕円形である。伝統的に、奏者は鳥の羽(しっかりした軸のついたもの) や小枝をピックとして使うが、指で弾く場合もある。 このように、アパラチアン・ダルシマーは、その形態、弦の数、大きさ、奏法などに多様なヴァリエーションがある。
アパラチアン・ダルシマーは、イギリス系アメリカ人の踊りや歌の伴奏として、アパラチア山脈の一地域で親しまれてきたローカルな楽器だったが、1950年 代頃から、フォーク・リバイバル(民俗音楽復興)の波に乗って広く紹介されるようになった。ジーン・リッチ―(Jean Ritchie)は、リバイバル時代からアパラチアン・ダルシマーの演奏者として知られている(音楽:;Over the River to Feed My Sheep by Jean Ritchie, The Most Dulcimerより)。

ハンマー・ダルシマー hammer(ed) dulcimer

 同じダルシマーという名でも、これはアパラチアン・ダルシマーとは全く関係のない楽器で、アメリカ北部及び中西部のイギリス系アメリカ人の民俗音楽に使われる。ヨーロッパ各地、さらにアラビアや中央アジア、東アジアに同種の楽器は広く分布しているが、ダルシマーという語は、イギリスを中心に用いられているようだ。 この楽器がイギリスから新大陸に持ち込まれたのは1700年以前だったというから、アメリカの民俗楽器としてはかなり歴史が古い。
ハンマー・ダルシマー(写真)は、台形の箱の表面にたくさんの金属弦が張られており、それを小さな木製のハンマーで叩いて演奏する。北米で使われているものは平均60弦ほどで、主に踊りの伴奏に使われてきた。またストリング・バンドの一楽器としても使われた(音楽:Devil's Dream by Jim Couza and Eileen Monger, Music For The Hammer Dulcimerより)。これはイギリス人のレコーディングだが、この曲はイギリス系アメリカ人の間でも演奏される。
ハンマー・ダルシマーは、19世紀の終わり頃、アメリカの民俗楽器として非常に流行し、シアーズなど大手デパートの通信販売でも手に入るほどだったが、 20世紀に入ってから次第に人気が衰えた。再び注目を集めるようになったのは、1950年代から1960年代にかけてのフォーク・リバイバル(民俗音楽復興)の時代からだ。

   はー。フォークを民俗とか民俗音楽とか訳すのですね。気持ちはわかりますが耳で聞くと「民族」とまぎらわしくてしょうがないですね。

   ヤマハも立命館もどちらの記述も、1940年代からの(立命館のほうは1950年代からの、としてますが* )フォーク・ミュージック・リバイバルとの関係を書いています。〔*Wikipediaの "American folk music revival" の記事の記述も"a phenomenon in the United States in the 1950s to mid-1960s" としています〕

   もうひとつ、ヤマハがリンクしている、ノースキャロライナ州 Waynesville の Michael McDonald さんの、

Dulcimer & Psaltery Page <http://www.geocities.com/nymike1/indexdulcimer.html> はいろいろなリンクとともに解説があります。冒頭の序のところだけ引用します――

     The dulcimer (which means "sweet music") is an old musical instrument that is called by many names: Appalachian dulcimer, lap dulcimer, mountain dulcimer, or Kentucky dulcimer. Local variants on the name are: hog fiddle, music box, harmony box, dulcymore, and delcumer. It is basically a fretted zither traditional to the southern Appalachian mountains. It consists of a narrow fretboard attached to a soundbox underneath. It usually has 3 to 5 strings. The common arrangement is 4 strings with the first two doubled providing the melody, and the remaining two being drone strings. It can be fingered like a guitar, but the traditional method is by using a "noter" on the melody string(s). A noter is a short wooden dowel used to slide up and down the fretboard to provide the melody. A pick is used to strum the strings, but fingers may also be used. The melody string(s) is fretted like the white keys on a piano (a diatonic scale). In other words, it is a modal instrument, not chromatic. It is usually tuned DAA or DAD. The A string in the DAA tuning is used as the melody string while the other A string and the D string are the drones. It is popular today to play the dulcimer with the fingers, thus providing harmonies and an increased variety in sound...as opposed to a drone.
     The dulcimer is believed to have been derived from the Swedish hummel, the German scheitholt, the Norwegian langeleik, and the French epinettes des vosges. It arrived in the United States, in one or more of these forms, and developed in the Shenandoah River Valley of southwestern Pennsylvania and western Virginia. The 1800s saw its arrival in the southern Appalachians, where, as a result of its simple manufacture and easiness of play, became a mainstay in the musical traditions of the mountain peoples of that area.
It remained a relatively unknown instrument, outside of the deep pockets of mountain isolation, until the 1940s when Jean Ritchie began playing it at folk music festivals. She also wrote the first major instruction and repetoire book for the dulcimer, which was published in 1963, and remains today the model for subsequent teaching material.  Many folk musicians today use the dulcimer in their music, and it may surprise you to know that Cyndi Lauper composed many of her songs on the dulcimer (including Time After Time), and still performs with it in concert. She was recently seen on the Today Show (October 20, 2002) performing with the dulcimer.

  20世紀における関心の復活については、1940年代にJean Ritchie (1922 - )がとりあげたと書かれています。シンディー・ローパーってダルシマー奏者だったのね。ジーン・リッチーのWikipediaの記事を読むと、1946年に彼女はPete Seeger と会い、1948年の春のステージではWoody Guthrie と共演しておるのですね。14人きょうだい(10人は女の子)の末っ子で、子供のころから歌っていた歌が、実はhillbillyだったことが戦後にラジオを買ってわかったこととか、おとうさんがダルシマーを子供たちには触らせなかったこととか、おもしろい話が書かれています(Jean Ritchie のホームページはhttp://www.jeanritchie.com/)。あああ、このFolklife Family Store Dulcimers のページとか見ているとダルシマーが欲しくなりますー。

  となるとストラムスティックなんかは、もっとずっとあとのモノですね。

  さて、ジョージア州Glenville の David Summerford さんが5人編成(a banjo,  two mountain dulcimers, a guitar, a djembe (打楽器))で演奏する「おおスザンナ」です。歌詞字幕付き。 ちょっと画像の重ね方はテンネンさんの「嗚呼スザンナ」〔「July 20 嗚呼スザンナ―― 「おおスザンナ」のあやふやな歌詞などのいろいろ の続き」参照〕を思わせなくもないところがあり(笑)――


"Oh Susannah on multiple instruments" (1:55) posted by "davidsummerford) on May 31,2008

    ちょっとダルシマーがあんまり聞こえない、ものたりないというむきには、つぎの、Robert Force さんという演奏家の、ちょっとしつこいくらいの芸と講釈をどうぞ――


"Force on 4 - pt. 2" (9:46) posted by "robertforce" (www.robertforce.com) on August 24, 2007

    最後に、耳直しといってはなんですが、Joni Mitchell の1970年秋のロンドンでの "California" のダルシマー弾き語りを――


"Joni Mitchell" (4:05) posted by "colonelhall" on March 19, 2008


    上のはBBCですが、Johnny Cash Show の―― "Joni Mitchell - California (The Johnny Cash Show) (3:47) posted by "henhenstoll" on November 11, 2007。(それから、『クラシック音楽の小窓』の最近の記事でBBCのもう少し長いヴァージョンをリンクした「アパラチアン・ダルシマー」 (2008.8.24) がありました)。

   この曲は1970年にジョニ・ミッチェル(1943 - )が1月のロンドン公演のあとヨーロッパを長期旅行した際につくったものだと思います(アルバムとしては翌71年の『ブルー』に収録)。出だしはパリのアメリカ娘ですね。ジョニ・ミッチェルはカナダ生まれですが、60年代後半にはロサンゼルスでDavid Crosby とかと仕事をしていたはずです。カリフォルニア・フォークロックの流れの中で。あー、このころにはジェームズ・テイラーと交際していてヨーロッパでも一緒だったのでした(71年破局)〔 James Taylor の「おおスザンナ」(1970年2月のSweet Baby James 所収) は「June 23 おおカリフォルニア!(3) おおスザンナ! (3) Oh! California Oh! Susanna 」参照〕。しかし、ジョニ・ミッチェル・・・・・・若い。

"California"  

Sitting in a park in Paris, France
Reading the news and it sure looks bad
They won't give peace a chance
That was just a dream some of us had
Still a lot of lands to see
But I wouldn't want to stay here
It's too old and cold and settled in its ways here
Oh, but California
California, I'm coming home
I'm going to see the folks I dig
I'll even kiss a sunset pig
California, I'm coming home

I met a redneck on a Grecian isle
Who did the goat dance very well
He gave me back my smile
But he kept my camera to sell
Oh the rogue, the red red rogue
He cooked good omelettes and stews
And I might have stayed on with him there
But my heart cried out for you, California
Oh California, I'm coming home
Oh make me feel good rock'n roll band
Im your biggest fan
California, I'm coming home

Chorus:

Oh it gets so lonely
When you're walking
And the streets are full of strangers
All the news of home you read
Just gives you the blues
Just gives you the blues

So I bought me a ticket
I caught a plane to Spain
Went to a party down a red dirt road
There were lots of pretty people there
Reading rolling stone, reading vogue
They said, how long can you hang around?
I said a week, maybe two,
Just until my skin turns brown
Then I'm going home to California
California I'm coming home
Oh will you take me as I am
Strung out on another man
California, I'm coming home

Chorus:

Oh it gets so lonely
When you're walking
And the streets are full of strangers
All the news of home you read
More about the war
And the bloody changes
Oh will you take me as l am?
Will you take me as l am?
Will you?


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September 18 ローパー、ダルシマー、シュナウファー Lauper, Dulcimer, Schnaufer [スザンナ周辺]

September 18, 2008 (Thursday)

    遅ればせながら、シンディ・ローパーとダルシマーで日本語検索して、今年2008年5月の朝のテレビ番組で生ダルシマー弾き語りをしたということを知りました(朝のヒットスタジオ 5.15

  それから、英語で検索して、デイヴィッド・シュナウファーがシンディ・ローパーについて語っている文章を見つけました。――

Cyndi Lauper is my student, friend, teacher and inspiration. A New York based artist of worldwide renown, her distinctive voice and songs have shaped our musical landscape since 1983. It was a treat to find out years ago she was also a delcimore player who composed many of these songs on that instrument. We finally met in 1996 when I was working on my Tennessee Music Box project and was trying to find some country artist who would like to use the old box on a session. Cyndi heard me play ten seconds on the instrument and had an idea for her song "Fearless" from Sisters of Avalon. We recorded it together the next day. Other projects followed, and her own dulcimer playing has come to the forefront of her live appearances around the world. Probably more people have been introduced to the dulcimer through her than anyone in history. I was thrilled when she wanted to do a song on this disc. I wrote "Twilight Eyes" with my good friend, Herb McCullough, in 1987 and always hoped to hear her sing it. Thank you, Cyndi, for the most magical musical moments of my life. <http://www.musicallmusic.com/davidschnaufer/delcimore_2008/dspage4.html>

(シンディ・ローパーはぼくの教え子であり、友人であり、先生であり、霊感の源泉だ。ニューヨークをベースにして世界的な名声をもったアーチストで、その独特の声と歌は、1983年以来ぼくらの音楽シーンを形作ってきた。何年もまえのことだが、彼女もデルシモアを演奏するひとであり、この楽器を使ってたくさんの曲をつくっていることを知ったときは嬉しかった。そうして、1996年、ぼくがテネシー・ミュージック・ボックスの仕事をしているときにぼくたちは会った。ぼくが、古いミュージック・ボックスを使いたいといってくれるカントリーのアーチストを探していたときだった。シンディはぼくがこの楽器を演奏するのを10秒聞いて、Sisters of Avalon の"Fearless" という曲に活かすアイデアを思いついた。ぼくたちは翌日一緒にレコーディングした。それからいろいろな企画があったりして、やがて彼女自身のダルシマー演奏は、彼女の世界をまわる公演の柱になった。おそらく、歴史上、他の誰よりも、シンディ・ローパーを通してひとびとはダルシマーを知ったのではないか。ぼくは彼女がこのアルバムで一曲参加したいといってくれたときに興奮した。"Twilight Eyes" は親しい友人のハーブ・マカルーと1987年に書いた曲で、いつもシンディが歌ってくれたらと願っていた曲だ。ぼくの人生の最も "magical musical moments" 魔術的な音楽の時間をありがとう、シンディ。) 

  「マジカル・ミュージカル・モーメント」というのはまさかディズニーが最初ということはないと思うのですが、誰が最初に言い出したフレーズなのでしょうか。鞭で知りません。この文章はどうやら1999年のシュナウファー自身のアルバムに書かれたものだと思われます。そのときシンディ・ローパーは2曲目のボーカルで参加したのでした。(これは"David Schnaufer ~ Memorial Page" のトップで聞くことができます。同じMySpace.com のphotos にはTennessee Music Box をもったものも含むシュナウファーの写真が15枚ほど掲載されています。)

  それから、上記の写真アルバムは、 "English Valley" におけるシュナウファー、というようなタイトルがついているのですが、テネシー州 Hendersonville にある "English Valley Music" という音楽スタジオ(アルバムDelcimore もここでつくられました)の Jan L. Pulsford という人が、シンディ・ローパーとデイヴィッド・シュナウファーの出会いを回想する文章を書いています。――

I was fortunate to work with David on many projects at my recording studio, English Valley Music, in the woods of Hendersonville, Tennessee, starting in 1995 when Cyndi Lauper, a dulcimer player herself, flew down from New York in search of David. We tracked him down to a class at Belmont and then to his apartment, which was like a shrine to his main love, the "Delcimore." All kinds of shapes and sizes of this peculiar American instrument adorned the walls and floors of his humble abode. Cyndi and I became fascinated with the Tennessee Music box and especially when we heard the tales, so eloquently told, of its origins. We invited him out to the studio to record with us for Cyndi's "Sisters of Avalon" album. That turned into one of those special magical nights along with one of the coldest! Not only did we record Cyndi's beautiful song "Fearless" live, with Cyndi strumming mountain dulcimer and David bowing the Tennessee Music Box but David regaled us with stories of the Melungeons and so the dance tune we were working on became a "Melungeon stomp." The Ballad of Cleo and Joe (as it was called) became a big club hit. All over the world the strains of the TN music box has been heard mixed in with the pumping beats of disco! 〔"Tuesday, January 16, 2007: Letter to the Tennessee Arts Commission" David Schnaufer - Dulcimer Memories <http://davidschnaufer.blogspot.com/>

  最初のところの時間的なつながりが曖昧ですが、たぶん、1995年から自分のスタジオでシュナウファーと制作をはじめたが、そのとき(1996年のはず)自分もダルシマーを演奏するシンディ・ローパーが、デイヴィッドに会いにニューヨークから飛んできた。で、シュナウファーが教えている大学へ行き、それから蒐集したさまざまのダルシマーで壁や床がいっぱいになったシュナウファーの自宅を訪問した。ふたりはシュナウファーがテネシー・ミュージック・ボックスを示してその楽器の起源についていろいろ話をしてくれてたいそう惹きつけられます。そしてアルバム制作への参加を要請する。その結果アルバムSisters of Avalon の 11曲目の "Fearless" ではシンディがマウンテン・ダルシマー(つまりアパラチアン・ダルシマー)を、デイヴィッドがテネシー・ミュージック・ボックスを弾くことになり、さらに、ダンス・チューンとして考えられていた 2曲目の "Ballad of Cleo + Joe" については、シュナウファーが "Melungeon" の話でさんざ笑かしてくれたかなんかしたんで "Melungeon stomp"になったと書かれています。ようわかりません。この曲です――"Cyndi Lauper - Ballad Of Cleo & Joe" (3:52) posted by "cyndilauperTV" on March 19,2007。

    さらに、シュナウファーが Sandy Conaster というナッシュヴィルのダルシマー奏者(大学以前の教え子)と一緒に1998年に Tennessee Folklore 誌に書いた "Tennessee Music Box: History, Mystery and Revial" というペーパーには、いわゆるアパラチアン・ダルシマーが19世紀末に現在の形になる、そのはるか以前から "music box" という呼ばれ方で存在し、1880年代まではつくられていた手作りの民俗楽器、古いタイプのアパラチアン・ダルシマーについての歴史的な考察が書かれているのですが、最後の "Revival" の節には、ややパーソナルな、Cyndi Loper への言及と、彼女の今後の活躍への期待が記されています。――

The Tennessee music box has been silent for half a century, collecting dust in barns and corn cribs or under the beds of relatives who hung onto the memories of their grandparents' old tunes.  Due to this research and David Schnaufer's career as a recording artist, the music box is enjoying a revival not only in folk music but popular, rock and classical music as well.  He states, "In 1996, during the Tennessee Bicentennial, I featured the music box on a solo dulcimer recording that showcased the various styles of playing - fingerpicking, quill and noter, and bowing.  This recording begins with "All the Good Times are Past and Gone," the first tune which Lawrence Gamble played for us.  During the time of this recording, I was visited by Cyndi Lauper, also a dulcimer player, who was charmed by the sound of the box and wanted me to play it on a song she was recording for a new album.  The bowed music box provided a very ancient bagpipe drone to her dulcimer and vocal rendition of the song "Fearless" on the album, Sisters of Avalon.  Cyndi has a huge following all over the world, and sales of this album are introducing millions to the unique voice of the music box.  She will be acquiring a box of her own soon, and the combination of the traditional sounds and her considerable composition skills will provide new music from this instrument for years to come. 

  "also a dulcimer [delcimore] player" と、ほぼ同じフレーズが使われています。それではシンディ・ローパーがデイヴィッド・シュナウファーの "student" だったというのはどういう事情なのでしょう。 

  ヴァンダービルト大学のホームページには "Vanderbilt University Register" というページがあり、といっても名簿が載っているわけではないのですが、Jessica Howard という人が書いた、生前のシュナウファーの記事(おそらく2002年4月)が掲載されてます。そのなかで、教育者としてのシュナウファーについてふれているところで、シンディ・ローパーが出てきます。――

Schnaufer said he "keeps a lot of students."  He's taught people from a 5-year-old girl to an elderly man to 1980s pop rocker Cyndi Lauper.  Lauper traveled to the Blair School in 1997 to take dulcimer lessons from him.  A dulcimer player since she was 21 years old, Lauper provides the vocals for the track "Twilight Eyes" on Schnaufer's 1999 CD, Delcimore.

  この記事によれば、シンディ・ローパーは21のときからダルシマーを演奏してきました。1997年――シュナウファーを訪ねて、アルバムづくりに参加してもらった翌年です――シンディ・ローパーは、シュナウファーからダルシマーのレッスンを受けるためにヴァンダービルト大学へ通ってきたのでした。

   こうして、ほぼ同年に生まれたふたりは、互いに刺激を与えあったのでした。シュナウファーの生年について、Wikipedia は"ca. 1953" (「1953年ごろ」)としています。それは亡くなった2003年8月23年から享年53を引いた推定でしょうが、実際は、1952年生まれのようです。

   カナダのジョニ・ミッチェルはシンディ・ローパーの10歳年長で1943年生まれです。思えば、戦後のフォークソング・リヴァイヴァルのころにアパラチアン・ダルシマーを復活させたジーン・リッチーがアパラチアン・ダルシマーについての最初の本 The Dulcimer Book* を著わすのが1963年でした。そうしてフォーク、カントリーだけでなく、ロック(ローリングストーンズが有名です)にも使われる(そういう音楽の時代になっていく)。シュナウファー自身、どうやらカントリーロックバンドにいたわけですが、まことに勝手な憶測では、民衆のものという意味でのフォーク――アメリカ的に言うとpeople なのかしら――への思いが後年ダルシマー蒐集とともに強くなったのかなあ、とも思います。

schnaufer_.jpg

David Schnaufer (1952 - 2006)

Photo by Neil Brake via "Vanderbilt University Register"

 

*正式な(?)長いタイトルは、

The Dulcimer book, being a book about the three-stringed Appalachian dulcimer, including some ways of tuning and playing; some recollections in its local history in Perry and Knott Counties, Kentucky; some observations on the probable origins of the instrument in the old countries of Europe; with plentiful photographic illustrations and drawing; and with words and music for some sixteen songs from the Ritchie Family of Kentucky

 New York: Oak Publications, 1963

 TheDulcimerBook_JeanRichie_.jpg

リプリント版の表紙

 

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"David Schnaufer ~ Memorial Page" MySpace.com <http://profile.myspace.com/index.cfm?fuseaction=user.viewprofile&friendid=100714974> 〔アルバムDelcimore (Collecting Dust, 1999) のプレイ、メモリアルページへのリンク、写真アルバムなど〕
Nashville Dulcimer Quartet <http://www.nashvilledulcimerquartet.com/> 〔David Schnaufer が1998年に教え子の Sandy Conaster やNatasha Deane たちと結成した the Nashville Dulcimer Quartet のページ。現在トップには7月に Jean Ritchie (そう、あのジーン・リッチーさんです) と共演した記事とリンクと写真が掲載されている。〕
Jessica Howard, "Texas-born virtuoso finds harmony, sophistication in Appalachian instrument."  <Vanderbilt University Registerhttp://www.vanderbilt.edu/News/register/Apr01_02/story9.html>
David Shnaufer, dulcimer player: Remembering David Schnaufer <http://home.usit.net/~ndq/rememberingdavid.html>  〔シュナウファーの仕事についてさまざまなページがある。たとえば "Reviving the Music Box"〕
David Schnaufer links to Archives 1996 - 2008 <http://www.musicallmusic.com/davidschnaufer/>

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September 20 トラップ・ファミリー合唱団のおおスザンナ "Oh! Susanna" by the Trapp Family Singers [スザンナ周辺]

September 20, 2008 (Saturday)

   音楽好きの孤児の女の子が修道院生活になじめずに派遣された家庭教師先の男ヤモメと恋に落ち、最初はうとまれていた子供たちからも好かれるようになり、みんなで一緒に合唱団をつくって音楽的な生を生きるトラップ一家の物語は、マリア・フォン・トラップ Maria von Trapp、 (旧名 マリア・アウグスタ・クッチェラ Maria Augusta Kutschera: 1905 - 87) が、夫の死後の1949年にMaria Augusta Trapp 名でアメリカの出版社から出した The Story of the Trapp Family Singers と、それを元にしたミュージカルや映画(いちばん有名なのはジュリー・アンドルーズの『サウンド・オブ・ミュージック』)などで有名になっています。モーリちゃんの父は、何年か前の春から夏にかけて衛星放送で再放送していたアニメを見てとてもおもしろかったのを覚えています。でも最終回を見た記憶がないのは、8月に帰省したときに録画をしそびれたか失敗したか、それともあれこれ一緒に録ってまぎれてしまったのかもしれない。

  アニメのほうでは、ナチスの台頭とオーストリア併合、それに反発するトラップ少佐たちが描かれていたと思いますが、トラップ一家は1938年にイタリア経由でアメリカに亡命します。 このへん、ウィキペディア日本語の「マリア・フォン・トラップ」の記事を引くと、こんな感じです。――

1933年、オーストリアを襲った金融恐慌によってトラップ家の財産を預けていた銀行が倒産し、財産を失った。その頃知り合ったフランツ・ヴァスナーという神父は、グレゴリオ聖歌に精通しており、兄弟姉妹の歌の指導をするようになった。さらにひょんなことから1935年のザルツブルク音楽祭に参加し、ヴァスナー神父の指揮で兄弟姉妹と母親で歌ったところ優勝してしまった。以降、この合唱団は人気となり、やがてヨーロッパ全域を回り、「トラップ室内聖歌隊」という名前でコンサートをおこなうようになった。

1938年、オーストリアはナチス政権下のドイツに併合された。ちょうどその頃、アメリカ合衆国のエージェントから公演の依頼を受けていたこともあり、家族でオーストリアを離れることになった(ナチ党員だったにもかかわらず一家に同情的だった執事が亡命を進言した)。一家と行動を共にすることに決めたヴァスナー神父と一家は汽車を乗り継いでスイス、フランス、イギリスへと渡り、サウサンプトンからアメリカへ向けて出航した。アメリカでのビザが切れると再び一家はヨーロッパへ戻り、そこでもコンサートを行って、1939年10月に再びニューヨークへやってきた。

1940年になると大手プロダクションが家族のプロデュースを引き受けることになったが、その時に「トラップ聖歌隊」という名前を改めて「トラップ・ファミリー合唱団」にし、曲目から聖歌を減らしてフォークソングを中心にするよう改められた。こうしてアメリカ中をまわるようになると再び評判を呼び、1956年までコンサート活動をおこなった。1948年、一家はようやくアメリカの市民権を得た。

夫ゲオルクは1947年に亡くなったが、マリアは家族の歴史をつづった The Story of the Trapp Family Singers(1949年、『トラップ・ファミリー合唱団物語』)や Around the Year with the Trapp Family (1955年、『トラップ一家の一年』)などを次々と出版し、ベストセラーになる。

英語のWikipedia の "Maria von Trapp" や下に挙げた『ニューヨーク・タイムズ』の記事はいずれもイタリア経由でアメリカと書いてあるのですが、実際のところはもうちょっと調べてみないとわかりません。目にとまった、Joan Gearin, "Movie vs. Reality: The Real Story of the Von Trapp Family"という長い文章(旅客記録とか、アメリカ市民になるための請願書とか、宣誓書とか、1942年にナイアガラフォールズ(ナイアガラの滝のアメリカ側の市)に永住の目的で入国した記録とか、いろいろな写真資料あり)を読んだかぎりでは、映画ではスイスだけれど、実際はイタリアへ向かったのが事実のようですし、市民権獲得の年についても違うようです。

  ともあれ、the Trapp Family Choir というキリスト教的な含みのある名称を変更するととともに、アメリカの民謡をレパートリーに積極的に入れたのは事実でしょう。

  で、次に引くのは、1958年のドイツ映画からです。『続・菩提樹』(Die Trapp-Familie in Amerika[The Trapp Family in America])――

 

"Trapp Family: Oh, Susanna/ I come from Alabama" (1:37) posted by "Jairdan" on May 10, 2007

   次男のヴェルナーだと思うのですが、 すごく高いボーイソプラノで、よいです。昨年2007年10月に91歳で亡くなっています。"Werner von Trapp" Wikipedia <https://secure.wikimedia.org/wikipedia/en/wiki/Werner_von_Trapp>

   って、現実と映画の混交が起こってます(そういうのを思うたびに思い出すのは大江健三郎の初期の小説のどれだかに出てくる、明治天皇と乃木将軍の映画を見て、明治大帝はりっぱで云々という感懐を抱く人間について揶揄する文章ですが、確認しないままに年が過ぎています)が、それも含めてしみじみしたのでした。

 

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The Trapp Family Lodge, Stowe, VT: A Little of Austria . . . A Lot of Vermont <http://www.trappfamily.com/> 〔1940年代前半に農場を買ってトラップ一家が住み着いたヴァーモント州Stowe のトラップ家のホームページ〕

Peter Kerr, "Maria von Trapp, Whose Life Was 'Sound of Music' Is Dead" New York Times, March 29, 1987 <http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9B0DEED91738F93AA15750C0A961948260> 〔3月27日に亡くなった翌日の『ニューヨーク・タイムズ』紙の obituary。アメリカに着いて最初の大きな劇場での公演について、昔の記事を引用して次のように書いている――〕

Their first major concert, which brought the Trapp Family Choir national attention, took place in New York in Town Hall on Dec. 10, 1938. In a review of their opening performance, The New York Times commented:

''There was something unusually lovable and appealing about the modest, serious singers of this little family aggregation as they formed a close semicircle about their self-effacing director for their initial offering, the handsome Mme. von Trapp in simple black, and the youthful sisters garbed in black and white Austrain folk costumes enlivened with red ribbons. It was only natural to expect work of exceeding refinement from them, and one was not disappointed in this.''

"The Story of the Real Maria von Trapp" <http://myfavouritethings.homestead.com/mariastory.html>〔個人のウェブサイト The Sound of Music <http://myfavouritethings.homestead.com/Homepage.html> 内。写真が数葉あります〕

Joan Gearin, "Movie vs. Reality: The Real Story of the Von Trapp Family" Prologue, Winter 2005, vol. 37, no. 4 <http://www.archives.gov/publications/prologue/2005/winter/von-trapps.html> 〔映画と現実の違い。最もこの映画は事実と違っているというのはたいへん有名な話です。いろいろな画像資料を掲載しているところが興味深い〕

 

 

 


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September 21 トラップ・ファミリー合唱団のおおスザンナ 追記  "Oh! Susanna" by the Trapp Family Singers [スザンナ周辺]

September 21, 2008 (Sunday)

September 20 トラップ・ファミリー合唱団のおおスザンナ "Oh! Susanna" by the Trapp Family Singers [スザンナ周辺]

の補遺です。

 

カリフォルニア時間9月21日朝9時――トラップ一家についてはいろいろな人が書いているだろうことはわかっていたのですが、目を通している余裕がありませんでした。いくつか参考のために並べておきます。いちおう最初に前回の参考url も再掲します。

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The Trapp Family Lodge, Stowe, VT: A Little of Austria . . . A Lot of Vermont <http://www.trappfamily.com/> 〔1940年代前半に農場を買ってトラップ一家が住み着いたヴァーモント州Stowe のトラップ家のホームページ〕

Peter Kerr, "Maria von Trapp, Whose Life Was 'Sound of Music' Is Dead" New York Times, March 29, 1987 <http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9B0DEED91738F93AA15750C0A961948260> 〔3月27日に亡くなった翌日の『ニューヨーク・タイムズ』紙の obituary。アメリカに着いて最初の大きな劇場での公演について、昔の記事を引用して次のように書いている――〕

Their first major concert, which brought the Trapp Family Choir national attention, took place in New York in Town Hall on Dec. 10, 1938. In a review of their opening performance, The New York Times commented:

''There was something unusually lovable and appealing about the modest, serious singers of this little family aggregation as they formed a close semicircle about their self-effacing director for their initial offering, the handsome Mme. von Trapp in simple black, and the youthful sisters garbed in black and white Austrain folk costumes enlivened with red ribbons. It was only natural to expect work of exceeding refinement from them, and one was not disappointed in this.''

"The Story of the Real Maria von Trapp" <http://myfavouritethings.homestead.com/mariastory.html>〔個人のウェブサイト The Sound of Music <http://myfavouritethings.homestead.com/Homepage.html> 内。写真が数葉あります〕

Joan Gearin, "Movie vs. Reality: The Real Story of the Von Trapp Family" Prologue, Winter 2005, vol. 37, no. 4 <http://www.archives.gov/publications/prologue/2005/winter/von-trapps.html> 〔映画と現実の違い。最もこの映画は事実と違っているというのはたいへん有名な話です。いろいろな画像資料を掲載しているところが興味深い〕

"Werner von Trapp" Wikipedia <https://secure.wikimedia.org/wikipedia/en/wiki/Werner_von_Trapp>

"Trapp Family: Oh, Susanna/ I come from Alabama" (1:37) posted by "Jairdan" on May 10, 2007 <http://uk.youtube.com/watch?v=zZRg5iOGpYo> 〔ドイツ版映画の「おおスザンナ」のシーン〕

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「トラップ一家その後の人生」 「わちの子倶楽部」の『トラップ一家物語の部屋』内 <http://www.geocities.co.jp/Playtown-Dice/2761/sonogo.html> 〔世界名作劇場を扱うページ内。「名作アニメ「トラップ一家物語」では一家がアメリカに亡命したところで終わってしまいますが、現実の世界ではもちろん彼らの生活はその後も続きます。ここではアニメで語られることの無かったアメリカ亡命後のトラップ一家の人々にスポットをあててみたいと思います。 参考文献:「サウンド・オブ・ミュージックの世界」求龍堂刊〕

トラップ一家物語年表 (トラップ一家に関する年表、「トラップ一家物語」と史実の相違点、「トラップ一家物語」と史実が異なる理由 『トラップ一家物語ファンクラブ』内 <http://www.geocities.co.jp/AnimeComic/1652/trapp/chrono.html> 〔世界名作劇場のファンクラブ。「全曲リスト」とかあって、熱がこもっています。この年表は「文溪堂『サウンド・オブ・ミュージック』、求龍堂『サウンド・オブ・ミュージックの世界』から抜粋、加筆して作成」〕

ついでに英語のページも――

"Trapp Family Story" Wikipedia <https://secure.wikimedia.org/wikipedia/en/wiki/Trapp_Ikka_Monogatari> 〔英語版。さすがに日本語のウィキペディアの「トラップ一家物語」のほうがくわしいです〕

"Georg von Trapp" Istria on the Internet <http://www.geocities.co.jp/AnimeComic/1652/trapp/song/song.html> 〔ゲオルク少佐についての記事ですが、その後のトラップ一家についてもたいへんくわしいです。以下、この記事をもとにしながら、かいつまんで記述することにします。〕

 

   1938年、ピクニックのような軽装で屋敷のすぐ裏の駅から汽車に乗り、アルプスを越えてイタリアへ、そしてトリエストに滞在し、それから船で――どこ から? というのが諸説あるようですが――ニューヨークへ。アメリカには6ヶ月の visitors’ visas で滞在。上の『ニューヨーク・タイムズ』が言及している公演は1938年12月ですが、その後ペンシルヴェニア州に行って公演を行ない、1月にフィラデル フィア市で子供ヨハネスが生まれて、それから全米のコンサートツアーを行なう。推定で8ヶ月間。しかしビザは切れているので国外退去せねばならなくなりま すが、コンサートの招待があってスカンジナヴィアへ公演旅行へ行く。1939年9月、第二次世界大戦勃発。アメリカのマネジャーから、演奏契約履行のため に、切符が送られてくる。9月27日、ノルウェーのオスロ発のアメリカ行きの船に乗ります(やっぱり6ヶ月ビザ)。このときもRev. Wasner と Martha Zochbauerが同行していることが、the Ship's Manifestによって知られます。

  アメリカでの最初の2年間、一家は "Trapp Family Singers" と書き記したバスを「家」として公演旅行をします。

TrappFamilySingers_kidsbus300.jpg

  "TRAPP FAMILY" の下はなんと書いてあるのでしょう? 

    おそらく1939年の秋から暮れに、ヴァーモント州Stowe の小さな村を見つけます。この山村は、オーストリアの自分たちの故郷を思い出させるところがあったようです。そして、お金を貯めて、600エーカーの土地 と農場を1941年(か42年)に購入します。マリアは "Cor Unum" と名付けますが "One Heart" 「ひとつの心」という意味です。


Photo from: http://www.trappfamily.com/history.html

   夏は農場で働き、8ヶ月間の演奏旅行をするというのはたいへんだったようです。マリアはキリスト者としての信念をもって仕事をしていたようですが、子供たちは自由な生活ができずに辛いところもあったようです。

  次男のWerner von Trapp (December 21, 1915 – October 11, 2007) についてですが、第二次大戦では陸軍 the 10th Mountain Division に参加してイタリアで従軍。帰国後、合唱団に戻りますが、その後は同じヴァーモント州のWaitsfieldに酪農家として独立。6人の子供と13人の孫にめぐまれます。孫の Sofia、 Melanie、 Amanda、Justin は現在のthe von Trapps Children あるいは the von Trapps として音楽活動をおこなっているようです――<http://www.vontrappchildren.com/>。娘の Elizabeth von Trapp は、やはり歌手になり、グレゴリオ聖歌とカントリーとフォークとミュージカル・コメディーを混ぜ合わせたコンサートを行なっているそうです。2001年には、アメリカの詩人 Robert Frostの詩を使用する許可を得たそうです。(cf.アマゾンのElisabeth Von Trapp―― "One Heart One Mind" とかは農場の名前を思い出させますね。)

   著書 Maria か ら―― "Overnight we had become really poor; we had become refugees. A refugee not only has no country, he also has no rights. He is a displaced person. At times he feels like a parcel which has been mailed and is moved from place to place. . . .  The only thing we could do well together was sing, so we had to turn a hobby into a way of living." (一夜にして私たちはほんとうに貧乏になっていました。私たちは亡命者になりました。国をもたないだけでなく、市民権を何ももたないのが亡命者です。場所 を移し替えられた人間です。亡命者は、ときどき自分が、場所から場所へと配送され移動される荷物かなにかのように感じます。・・・・・・私たちが一緒に なってできることは歌うことだけでした。それで私たちは趣味を生活の糧に変えねばならなかった。)

 

 

 


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